韓流好きリフレ派先生、遅ればせながら『最後の「冬ソナ」論』出版おめでとうございます。
いや、当然こちらでは未入手なんですが、NHK土曜夜の韓流ドラマは毎週チェックしていたもののそれ以外の「追っかけ」はしないというヘタレ韓流ファンとしては、以前先生が「完全なる映画」とおっしゃっていた映画『パッチギ!』をDVD見たあとに書きかけていた感想メモをなんとかまとめて、ささやかなオマージュに変えさせていただこうと勝手ながら考えた次第であります。
さて、僕は普段決して映画をよく観る方ではなくて、そのくせたいていの「在日」をテーマにしたフィクションにはすれた感想しか持たないという厄介な奴なのだが、この作品は非常に楽しんで観ることができた。印象を一言でまとめると、60年代的なものにアイロニカルな視線を向けながらその中で最も大切なメッセージ−価値観が違うもの同士の共生ーを救い出そうとしている、といったところだろうか。その意味でdvoixさんid:dvoix:20050128やkwktさんid:kwkt:20050124の感想におおむね同意する。
(以下、ネタバレしまくり)しかし、一方で、例えばid:hanak53さんid:hanak53:20050326で紹介されている『諸君!』に掲載の浅川氏の論考の指摘もある程度わかるような気が。これは要するに、劇中において日本人ー在日朝鮮人間の「壁」とくに、言語コミュニケーションにおけるそれが必要以上に強調されすぎており、いわば実在しない「壁」が捏造されているのではないか、という批判だ。 また、オダギリ・ジョー演じる酒屋のボンボンが、朝鮮人の「強制連行」について主人公に非常に説明的な口調で語ったり、葬式のシーンで老人が主人公を告発する際の言葉がかなり紋切り型だったり、あるいは北朝鮮への帰国運動への肯定的な評価ばかりが語られたりする点に関しても、ドラマとしての展開よりもまずそこでの「語り」の表層的な「意味」につまづき、映画全体に違和感を持つ人もいるかもしれない(実際かなりいたようだ)。
こういった批判については、例えば上記のdvoixさんのエントリのように、事実関係を知らない観客に啓蒙するのが目的なのだ、という説明もありうるだろう。しかし、僕はここでこの映画の見方をめぐる対立を「ベタ」と「ネタ」の境界の微妙さという点から語ってみたい。つまり、これらのシーンは「ベタ」に民族問題を語っているようで実はそれが「ネタ」としても捉えられる余地を残しているのだ、と。
すでに語りつくされていることだが、この映画には60年代的なアイテムがこれでもかと「ネタ」としてちりばめられている。GSに始まりフォークにボーリング、フリー・セックス、フラワー・ムーブメント、などなど。
特に毛沢東を信奉するダメ教師には腹を抱えて笑った。というかこれほど極端ではないにせよ、これに似た教師は僕が通った80年代大阪の小・中学校には確かに実在したのだ。例えば中学時代の社会科の教師は僕に「君なら理解できるだろう」と言ってエンゲルスの『空想より科学へ』とレーニンの『帝国主義』などとともに『矛盾論』『実践論』を貸し与えたものである。休みの日に小栗康平監督の『伽や子のために』に連れて行ったのも彼だったっけ。
で、僕が言いたいのは、酒屋のボンボンが語る「強制連行」についての説明も、老人による紋切り型の告発も、むしろ毛派教師やGSやヒッピーと同種のネタとして配置されたものとしてみることは可能なのではないか、ということだ。
ただ、毛派教師などが誰が見ても「ネタ」であるのに対して、一連の「半島」ネタは映画の中で非常に微妙な扱いを受けているのもまた事実だ。「地上の楽園」北朝鮮に帰ろう、というのはまだネタとしてわかりやすい類だが、問題の「強制連行」言説についても、近年の鄭大均氏らの一連の優れた批判によって、その意味が改めて問い直されつつある、といっていいだろう。ただ、一方でそれをあからさまに言い立てることがはばかられるような空気が、「進歩的な」マスメディアを中心に存在しているのもまた事実だ。昨今の日本の『嫌韓流』ブームは明らかにそういった微妙な空気への苛立ちとして生じたものだと思うし、『パッチギ!』に反発する人も映画の中にそういった微妙な空気を感じ取っているのだと思う。
ただ、こういう微妙な問題だからこそ、井筒監督は、それを「ネタ」とも「ベタ」とも取れる余地を残しておき、それに関する事実認識の「正しさ」よりもむしろそこで生じる人間と人間とのぶつかりあいを描くことを上位におく、という表現方法をとったのではないだろうか。そして、そういった監督の姿勢に、僕としてはかなりの共感を覚えるのだ。
こう考えてくると、この作品は育った地域・年代・知識量によって見方にかなりの温度差が生じる作品なのかもしれない。僕のように関西で人権教育を受けて育ち、ある程度リアルな日本人−朝鮮人の関係がイメージできる人間にとっては、監督は政治的な対立をひとまず「棚上げ」にした上で成立しうる人間のドラマが描きたかったのだな、という風に感じるし、これを「朝鮮問題に関するある種の見方を押し付けられている」と感じてしまった人は見るのがしんどくなるのだろう。
まあ、すでにいろんな人が熱い感想を描いている映画に何をいまさら、という気がしないでもないのだが、ただ、「微妙さを認めたうえでの人間同士のぶつかり合いの肯定」を描いたこの作品は、何かと話題の『嫌韓流』いろいろな意味でとは対極にあるように思えるので、その意味ではアクチュアルな問題とも若干関係するかもしれない。例えば『嫌韓流』を批判する際にも、そこに『パッチギ!』のようなものを補助線としておいてみるともう少し生産的な批判なり議論なりができるのではないか、ということをぼんやりと感じているところだ。もっとも、こちらの方は来る前ににパラパラめくっただけでこっちには持ってきていないので、これ以上は論じないけど。