知っている人は知っているだろうが、知らない人は全く知らないだろうETLO(東トルキスタン解放機構)による中国政府への武装闘争宣言に関するニュースで、一部のブログや2ちゃんねるでの情報交換がなかなかの盛り上がりを見せていて、僕も非常に気になっている。気になっているのはもちろん事の今後の成り行きや背景のこともあるのだが、それについてはkokさんのブログなどに任せたい。
僕が気になっていることの一つ目は、欧米のメディアが温度差こそあれ(例えばロイターが配信した記事は基本的に中国政府の見解に沿ったものであったのに対して、APは東トルキスタン側にかなり同情的な報道を行っていた)、事件に関する最低限の情報を伝え、中には事件の背景となった中国新疆における民族対立についてもかなり踏み込んだ報道をしているのに対して、日本のメディアの報道貧弱ぶりがあまりにに目立つ、ということだ。例えば時事通信が流したベタ記事では、なぜかもともとのソースではなく中国政府よりの香港紙からのまた引きでニュースを紹介した上「確認されれば」という「逃げ」とも思える表現でお茶を濁している。「確認されなければ」無視してもいいということだろうか?中国語紙や英文メディアは、この件に関して在中アメリカ大使館がアメリカ国民に対し新疆への旅行に関しての注意を喚起したことや、穏健派といわれる「世界ウイグル会議」がこの事件について声明したことについてもきちんと報道しているのだが・・
このような状況は二つの点で憂慮すべきだと思う。まず、このような中国の将来に大きな影響を与える可能性のある問題について、各メディアが「中国より」というならまだしも、ほとんど主体的な判断を放棄しているように思える点だ。このようなことで今後、もしより深刻な問題が新疆で生じたときに、まともな報道ができるとはとても思えない。
もう一つは、後で述べるけれども、このようなマスメディアにおける「情報の欠如」が、インターネットの言説レベルでの東トルキスタン独立運動に対する非常にベタな肩入れ、裏返しとしての強烈な反中意識を生み出しているように思える点だ。2ちゃんねるで、朝日がこの問題をスルーする一方で、ウェブ版で新疆ウイグル族自治区成立50周年を記念する人民日報の記事を配信していたことが揶揄されていたが、この件に限っては僕はこの2ちゃんねらーの感覚に完全に同意する。朝日は、自身の中国への報道スタンスがひょっとして国内世論をますます反中に傾くのを助長する役割を果たしているんじゃないか、ということにいい加減気づいて欲しい。
もう一つ気になるのは、上に書いた「独立運動に対するベタな肩入れ」に関するものだ。これに関して自力で論じるのは僕の手に余る。とりあえず、以下の塩川伸明氏による、旧ソ連・東欧諸国の民族問題に関するキムリッカの著作に対する批判をお読みいただきたい。
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/Kymlicka.htm
ここで塩川氏は、キムリッカが、各エスニティグループの「民族自決」と「普遍的人権を重視するリベラリズム」を両立させるべきだ、という立場から旧ソ連の民族政策を批判する際に、旧ソ連に代表される「現存した社会主義」は、そもそもその出発時点から「民族自決」の理念を抱えて登場したこと、およびその理念が実現されなかった背景として諸民族同士の歴史的な複雑な絡み合いがあること、をほとんど無視して議論を進めているとして、そののナイーブさ、および隠れた西洋中心主義を厳しく批判している(塩川氏自身の民族問題に関する見解は『現存した社会主義』ISBN:4326301317『民族と言語―多民族国家ソ連の興亡〈1〉』ISBN:4000022075)。
キムリッカは、東欧諸国の人々がマイノリティの自治・自決権や多民族連邦制について不当な偏見をもち、それらを頭から峻拒しているという風に理解し、そうした偏見を解き、これらがよき解決策であることを納得させようと努めている。そうした啓蒙的論調が本書の大部分を占めている。だが、そこには大きな前提的誤解がある。旧ソ連・東欧諸国で今日、民族自決権や多民族連邦制がどちらかというと不評――キムリッカがいうほど全面的に峻拒されているわけではないが――なのは、それらの観念が知られていないからとか、あるいは抽象的原則として拒否されているということではなく、むしろ一般論としては正当なお題目でも、具体的条件下での適用如何では意図と食い違った結果をもたらしうることへの危惧にある。それなのに、そうした具体的条件下での適用についてはごく軽く扱い、ひたすら一般原則としての正当性を強調するのでは、全くのすれ違いというしかない。 ソ連史研究者にとっては言わずもがなのことだが、旧社会主義国では七〇年余にわたって「民族自決」がイデオロギー的に強調され続けてきた。そして、今日それが不人気なのはそうした過去への反撥、一種のアレルギーに由来する。ところが、驚くべきことに、キムリッカはそのことを完全に等閑に付している。これは、「現存した社会主義」がどのような社会だったかの認識のほぼ完全な欠落であり、致命的といわなくてはならない。
もちろん、ここで塩川氏が旧ソ連・東欧について述べていることを、単純に中国の現実に当てはめることはできない。後者は前者に比べてそもそも国民に占める少数民族の比率やその発言力も全く異なるし、そのために早い段階で「民族自決」の理念を放棄して「民族区域自治」を採用しており、その矛盾が現在このような形で噴き出しているからだ。それでも、社会主義建設の中でのいわゆる「民族識別」によって多くの民族が「作りだされ」、民族語教育や民族エリートの養成と共に一種のアファーマティブ・アクションが行われてきたという点では旧ソ連との共通点も多いように思える。
それにしてもやはり気になるのは、上で述べたようなマスコミによる情報の欠如を埋めるように多くのウェブサイトやブログが東トルキスタン問題についての言及を始めた−それ自体はもちろん肯定されるべきことである−が、その多くが上記のキムリッカの議論よりもはるかにナイーブな形で「民族自決賛成」と「人権抑圧反対」の立場から独立運動への支持を表明している点である。
このうち「人権抑圧反対」はいいとして、東トルキスタン独立運動をウイグル人による一枚岩の「民族自決」要求の運動としてとらえるのはあまりにナイーブで、危険でもある。簡単に言えば、そういった立場は、地域の中に住む漢族とウイグル人以外の諸民族(カザフ人、キルギス人・・)のことを全く考慮に入れていないし、またウイグル人社会内部に存在するあまりに大きな意識の隔たり(漢族ともなんとかうまくやっていきたいと思うものから、あいつらブッ殺したる、というものまで)も無視されている。要するにその「支持」が本当にそこに暮らしている人々のためになっているのかどうか、という内省がないことが気になるのだ。
もちろん、「歴史的に複雑な経緯があるから、中国政府の新疆における人権抑圧を批判すべきでない」、などというつもりは全くない。むしろ大いにやるべきだと思う。ただその批判は当該地域に関する最低限の歴史的背景と、民族問題の現状の複雑さへの理解を踏まえたものであるべきだ、ということなのだ(その理解のためには、とりあえずhttp://www.kashghar.org/mainmenu.htmにリンクされている情報や研究者の著作にアクセスすることが役に立つだろう)。
その点で欧米のメディアの報道は、中国政府に批判的なものであっても「複雑な事情があるのはわかるけど、やっぱり人権は大事だよね」という姿勢が感じられる。それに引き換え日本の状況はどうか。重要な問題について判断停止し、市民が主体的に考えるための情報提供を放棄したマスメディアと、その反動としてのネット上でのベタな独立運動への支持。今後このあまりに大きな「落差」を埋めていくことは可能だろうか。