梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

いただきもの

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東京工業大学附属科学技術高等学校で行った授業をもとに大幅加筆したという池上彰さんの「世界の見方」シリーズ、中国の改訂版です。後半ではデジタル大国化に関する監視テクノロジーなど、『幸福な監視国家・中国』と重なるような話題も多数盛り込まれています。

いただきもの

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版元よりご恵投いただきました。リー・クアンユー李登輝ブトロス・ガリアンジェイ・ワイダオルハン・パムクら世界の政治家や知識人にインタビューし、それぞれの国が抱えた近代の葛藤と日本への特別な思いに迫った1冊です。

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著者の綿野さんにご恵投いただきました。前著の『「差別はいけない」とみんないうけれど。』に引き続き、進化心理学認知科学の知見を用いながら現在の「対立と混乱の図式」を読み解いた待望の1冊です。

kaikaji.hatenablog.com

パラリンピック開会式と、ウォーリー木下さんのこと

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 パラリンピックが終わってからから、早いものでもう一週間になる。すでに多くの人が語っているように、パラオリンピック開会式(および閉会式)は、オリンピックの開会式よりも、はるかに「よかった」。そしてそれは、当初開催について批判もあったパラリンピック全体への、事後的な高い評価にもつながっているように思う。
 では、パラリンピックの開会式はどこが「よかった」のだろうか。

  オリンピックの開会式と異なり、統一感があった。多様性の重視、というメッセージがダイレクトに伝わってきた。また、エライ人たちからの余計な横やりがなく、クリエーターの「遊び心」がのびのびと発揮できた、など、すでにいろいろなことが言われている。首都圏を中心としたデルタ株の感染拡大がピークアウトしつつあったことの効果もあったかもしれない。だが、一番重要だったのは、久しぶりに、まっすぐでポジティブなメッセージが、公式な場で発せられたからではないだろうか。

 特にオリンピック前にはTwitterなどで日々繰り広げられるネガティブな言葉の応酬に、うんざりしていた人は多いはずだ。確かにオリンピックの競技始まってからは、開始前のゴタゴタはすっかり忘れられ、メダルラッシュに沸いた、つまり、社会にポジティブな気分があふれた、ように見えるかもしれない。しかし、それは言ってみれば、頭では決して納得していないのだが、多くの人々が、ある種の強い感情を喚起する映像を見せられ、いわば身体レベルで「無理やり感動させられている」ような、深刻な分裂状態におかれたのに過ぎなかった。
 僕は原則NHKしか見ない人間なのだが、オリンピック期間のNHKの報道の「分裂」ぶりは特にひどかった。コロナ関連の「危機」を強調する報道と、オリンピックの「感動」を伝えるはず報道とが、いきなり頻繁に切り替わるうえに、両者の落差をどう受け止めればいいのか、それらを統合するためのメッセージが画面を通じて伝えられることもほとんどなかった。本来なら政治家がその仕事を果たすべきなのだろうが、それから間もなく辞意を表明することになる現首相には、いうまでもなくその能力が絶望的に欠けていた。

 だから、パラオリンピックの開会式で発せられた「困難を抱えながら夢を追求する人たちのさまざまな生き方を肯定し、応援しよう」という、政治家やメディアから聞くことのできなかったシンプルで力強いメッセージが多くの人の心に響いた、ということはあるだろう。

 だが、僕にとっては、それ以上にこの開会式は特別な意味を持つものだった。演出のウォーリー木下氏が、神戸大学の演劇部「自由劇場」に同じ年に入部した仲間だったからだ。

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「悪の愚かさ」と「アジア」への向き合い方

先日のブログ記事に対して、光栄にも東浩紀氏より直接反応を頂いた。


 というわけで 『ゲンロン10』に掲載された東氏(以下、敬称略)の評論「悪の愚かさについて、あるいは収用所と団地の問題」および『ゲンロン11』の「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」を読んだ。東がこういった主題に本格的に取り組んでいることについて、今まで不覚にも知らないでいたのだが、遅まきながらこの時期に読めてよかったと思った。

前者の評論は、2019年の春に東が中国ハルビン七三一部隊罪証陳列館の人体実験の研究所を尋ねて、そこで研究所のあった場所にマンションが建っていることに強い印象を受けて考えたことがベースとなっており、「大量死」と「大量生」の連続性の問題から過去の悪への向き合い方を考えた文章だ。
 後者では、前者の問題意識を継続しつつ、第二次大戦の日本軍の「悪」とは、主体的に選択されたものでも(能動)、また背くことができない命令によって強制的にやらされた(受動)でもなく、「なんとなく」「はっきりとした自覚なしに」手を染めていた、いわば「中動態」の行為だったのではないか、という問題提起が、国分功一郎の著作を援用する形で行われる。そして、「なんとなく」行われてしまう悪の愚かさを語り継ぐことの重要性が、チェルノブイリ原発事故の問題と重ね合わされながら語られる。 

 どちらも重要な問題提起を行っていると思うが、僕には後者については本格的に論じる能力はないので、ここでは前者を中心に論じることにしたい。

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