梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

スピルバーグ

 年末に『ミュンヘン』を観てからすっかりスピルバーグのことが気になってしまい、観ていなかった『宇宙戦争』と10年以上前に見たきりの『シンドラーのリスト』のDVDを借りてきて大晦日から正月にかけて観た。ちなみに写真はこちらで買った太平洋戦争をモチーフにしたボードゲームで、スピルバーグの映画とは直接関係ありませんので念のため。

 『宇宙戦争』はなるほど面白かった。ところどころ挿入されるギャグ(というか小ネタ)がナイスでそのたびに大笑いしながら観た。すでに多くの人が指摘しているんだろうけど、侵略者との戦いというむちゃくちゃベタな舞台設定のなかであえて「自分達の内部に存在する悪」を描き出すことに眼目をおいたスピルバーグの心意気は買いたい。その意味でこの作品は『インディペンス・デイ』などの先行作品と一線を画すのみならず『シンドラーのリスト』『プライベー・トライアン』とも明らかな態度変更が見られるように思える。

 で、『シンドラーのリスト』の方だが、ディテールをほとんど忘れていて、新鮮な気持ちで見ることができた。全体的に以前の印象よりも「よくできている」と感じ、長さを感じなかった。特にベン・キングズレーによるユダヤ人技師の演技は非常にいいと思った。また、ディテールの描き方やBGMの使い方など当たり前と言えば当たり前だが『ミュンヘン』までのその後の作品に引き継がれている技法が多いことにも気がついた。しかしまた同時に、初めて見たときに感じた違和感をはっきりとした形で思い出すこともできた。

 その違和感とは、一つには、たとえばこの方が指摘しているように主人公の内面描写、特に当初の目立ちたがり屋の山師から後半部における非の打ち所のないヒューマニストへの変化の過程が十分に描かれているとは言えず、かなり平板な印象を受けたということがある。そしてもう一つは、ホロコーストそのものの描写というよりも「ホロコーストのような絶望的な状況の中で人を救うこと」というこの映画の中心的なテーマに関わる。つまりスピルバーグは結局このテーマの困難さに正面から取り組んでいないのではないか、ということだ。
 簡単に言うと、次のようなことである。オスカー・シンドラーが行ったようにリストを作りそこに名が記載されているものを「救う」という行為は、裏返せばそこに必ず「選ばれなかった」者がいることを意味する。「選ばれなかった」者にとって自分以外のだれかが「選ばれた」という事実は、その絶望を一層深くしたかもしれない。また、「選ばれたもの」と「選ばれなかったもの」の間に境界線を引く行為は、映画で描かれるように、いかに「選ばれたもの」の範囲が大きくなるよう努力が行われたとしても、何らかの恣意性なしに行われることは不可能である。その境界線の恣意性が、たとえばアーモン・ゲートによって虫けらのように殺された人間と殺されなかった人間との間に引かれた境界線の恣意性よりも「人間的」だったということは果たして可能だろうか。

 しかし、これらのことは映画の中では一切触れられない。もちろん、このようなことによってオスカー・シンドラーという実在した人物を非難することは誰も出来ないだろう。だが絶望的な状況の下では恐らく人を救うという行為さえ何らかの残酷さとは無縁ではありえないのかもしれないのに、そのことに目をむけずこの逸話を結局は「感動的な物語」として世界の観客に提示したスピルバーグにはやはりどうしようもない「甘さ」を感じる、と言わざるを得ない。

 ・・以上のような議論には多くの人が「今さら」と感じるだろうが、13年前の僕は恐らくこのようなことをぼんやりと感じながらうまく言葉に出来なかったのだと思う。ただ、この違和感は、先日のエントリid:kaikaji:20051229:p1でも少し触れたような「語りえない体験としてのホロコーストの<出来事>性を台無しにする」という批判とは恐らく同じものではない。このようないわば作品論の外部からの批判については、自ら『ショアー*1を撮ったランズマン監督のような人口から語られる分には非常に納得できるのだが、それ以外の、たとえばランズマンの日本における紹介者たちがそれと同じ論法でスピルバーグ批判を繰り返したとしたら、それはあまり生産的なことだったとは思えない。あまりうまくは言えないのだが、たとえどのような題材を扱ったものであるにせよ、映画という媒体がどうあがいてもその虚構性から逃れられない以上、作品の外部にある現実を「語り・伝え・記憶する」という観点から見てどうか、ではなく、あくまでも完結した作品世界の中で何が描かれ、何を訴えようとしているかを評価するべきなのではないだろうか。

 ・・以上のようなことを考え、また今回は観ていないが『プライベート・ライアン』の描写を思い返してみるにつけ、スピルバーグは結局「戦争の中で人を「救う」とはどういうことか」というそれ自体は重要なテーマを十分に追求し切れなかったのではないか、という気がする。その点で、最近の彼の作品における「救う」存在から「殺す」存在へという主人公の立場の移行が決定的な役割を果たしている、という先日のエントリにおける見方も、あながち的外れではないのかもしれない。

*1:僕自身は『ショアー』はまだ観ていない。この機会にDVDを手に入れようかとは思っている。アマゾンで100ドル前後。