梶ピエールのブログ

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アナーキー・イン・ザ・PRC

 先日、梅田の駅ビルに出来た映画館で、姜文監督の『さらば復讐の狼たちよ』を観た。評判に違わず、娯楽作品として完成度が高いだけでなく、今の中国を考えるにあたって格好の題材を提供してくれる傑作だと思う。この作品は特にリベラルな知識人層から絶賛されたと理解しているが、この作品で明らかになったのは、姜文リベラリストというよりもむしろアナキスト的な側面だという印象を受けた。映画の内容とその政治的な「読み方」については、福島香織さんによる以下の記事が詳しいのでそちらを参照のこと。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20120702/234035/?top_updt&rt=nocnt

 上にも書いたように、姜文はどちらかというと左派よりはリベラル派に人気のある監督だと思うが、姜文自身の立ち位置は典型的なリベラリズムとはかなり距離があると思う。いわゆるリベラリストと彼との立ち位置の違いは、先ほど来日した米国在住の民主活動家、王丹と比べれば明らかだろう。日本での講演で、王丹は中国の民主化と人権問題の解決に向けた活動への支持を訴えた。これに象徴されるように、彼はリベラルな国家、国際機関などの力を利用して、自らの理想に近い政治体制を中国に実現させることを目指しているといってよい。ここに見られるのは現政権に対する不審と共に、リベラル・デモクラシーに基づいた「より望ましい統治体制」への強い信頼感だろう。それこそが彼の行動原理を支えているのだ。

 一方、姜文はたとえ現政権への批判という点では王と通じるものがあるかもしれないが、それを彼のように海外勢力と手を結んだ民主化運動として展開することには、あまり関心があるようには思われない。もちろんそこには映画人と活動家という立場の違いもあるだろうが、そこにはより深い権力観の違いのようなものも窺えるのではないだろうか。要はおよそ統治体制と名のつくものに対する根深い不信感のようなものが、彼の根底にあるような気がするのだ。

 その意味では、嵯峨隆らによりその意義が明らかにされてきた、近代中国におけるアナキズムの系譜の中に、表現者としての姜文を位置づけてみたら面白いかも知れない。映画冒頭の、馬でひいた列車を転覆させると言う描写がマルクスレーニン主義(馬列主義)の終焉を揶揄しているとして話題になったが、むしろこれはアナキズムからボルシェビキに放たれた痛烈な一矢なのではないだろうか?

 ただし、姜文の作品に漂うアナキズムは、プルードンのような協同組合主義というよりは、むしろマックス・シュティルナーのような徹底した個人主義に近い。『太陽の少年』や『鬼が来た!』など、これまでの彼の作品にも強固な個人主義的価値観は感じられたが、それらは組織や権力というものに対する徹底的な不審、というシュティルナー的な価値観が反映されていた、と考えても、それほど的外れではないだろう。

 シュティルナーの思想、特にマルクスによって批判的に継承された疎外論のエッセンスについては、松尾匡『「はだかの王様」の経済学』などでやや詳しく紹介されている。松尾によれば、人間社会において生じる「疎外」とは、「相互に依存しあって生きる人々が、社会を維持するためという思い込みに縛られてしまい、抑圧的な状況から抜け出せなくなってしまう」状況として説明される。これは映画の中で描かれた、チョウ・ユンファ演じる地元の有力者ホアンの苛斂誅求に苦しむ鵞城の住民たちのおかれた状況を思い起こさせる。ただ、それに対抗するのに、住民達をオルグして集団の力で「はだかの王様(=ホアン)」に立ち向かうのではなく、自分自身および強い絆で結ばれた少数の仲間たちの力だけを頼りに、王様が裸であることを暴くしかない、と考えるのが姜文演じるアバタのチャンの姿勢であり、個人主義的なアナキズムを強く感じさせるところである。

 近代中国においてアナキズムを唱えた都市の思想家の多くは、やがて国民党の体制内イデオローグとして取り込まれていった。一方で、軍閥の割拠する民国期には農村では「緑林」と呼ばれる反権力的で金持ちを襲うアウトロー的な存在が、弱いものの見方である「義賊」として一部で農民達の支持を集めるという現象がしばしばみられた(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』)。恐らく彼らには思想と言えるものはなかっただろうが、むしろその姿勢は広義のアナーキズム的なものとして位置づけられるのではないだろうか。こういった農村部を本拠地とするアウトローをうまく勢力拡大のために利用し、最終的には自分たちに取り込むか、あるいは利用価値がなくなったとして捨て去ったのが中国共産党であった。浅羽通明アナキズム』では、このようなアウトロー的な反政府集団がコミュニストに利用され、最終的に捨てられた例として、ソ連成立前後のウクライナにおけるネストル・マフノの反乱が紹介されている。

 さて、国民党に取り込まれた都市のアナキストにせよ、共産党に利用された緑林にせよ、これらの人々は権力や党によって利用されるものの、最終的には政治的にも思想的にも、決して主流にはならない人々であった。だが、それだからこそ、近現代の中国史においてその存在は独特の輝きを放ってきたのだとも言える。都市の自由人的な価値観をもつ表現者である姜文が、そういった決して歴史の中で主流にならなかったアウトローに対する共感も込め描いたのが、『さらば復讐の狼たちよ』という映画なのだと思う。

 いくつかのレヴューでも指摘されているように、『七人の侍』を明らかに意識したと思われる描写もあるものの、この作品は『七人の侍』とは本質的なところで対極に位置する。農村共同体の「傭兵」である侍たちは、基本的に共同体の秩序を回復することを使命としており、土地の権力者の暴力によって保たれた秩序を崩壊させた後に全く何のビジョンも描き出せないチャンたちとは対照的である。機会主義的でまとまりのない老百姓が絶対的な権力者と対峙していた民国期の鵞城では、アバタのチャンらによるアナーキーな闘争は圧政に苦しめられる人々にとって一筋の希望の光を投げかけるものではあるが、秩序を崩壊させた後の展望を見いだすことは出来ない。それがこの映画ラストのほろ苦さ、一種のニヒリズムにつながっている。

 その意味では、この映画のテイストは七人の侍というよりも「宇宙海賊キャプテンハーロック」に近いかもしれない。ハーロックも、敵を倒した後で地球をどうにかしようという建設的なビジョンがあって闘っていた訳ではないからだ。もっとも、「ハーロック」のように、主人公が自分にとって大切なもののためだけに闘う系統の作品は、日本では一部でカルト的な人気を誇るもの、失われた秩序の回復という「大義」のために闘う男たちの物語である「宇宙戦艦ヤマト」や「七人の侍」にくらべると、決してメジャーな存在にはなれない運命にあった。

 一方で、そのようなニヒリズムアナキズムが融合したテイストを持った映画が中国国内であの『レッド・クリフ』を凌ぐ、歴代ナンバーワンを記録するほどの興行的成功を収めたことは大変興味深い。もちろん、やはり海外に亡命した民主派の作家である余傑のように、この映画は結局のところ国内における非暴力的な体制変革の動きを削ぐ役割しか果たさない、という批判ももちろんあり得るだろう。また、作品の中で名優葛優が演じた買官役人に体現された、「権力」に対して従順かつ機会主義的に振る舞い、どこまでも「勝ち馬」に乗ろうとする姿こそが中国のマジョリティなのさ、というシニシズムをこの映画に読み取ろうとするのも、全くの的外れではないだろう。
 だが僕には、この映画は、そしてこの映画を生み出した中国の社会状況は、それほど単純な図式では割り切れないものをはらんでいるような気がしてならない。それが結局のところ何なのか、具体的にはまだうまく言えないけど。

「はだかの王様」の経済学

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アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)

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