梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

神話的暴力と神的暴力、あるいは「動物」たちの反乱

 少し前の、稲葉振一郎氏のエントリより。

少し話は変わるが、人(認識・行為の主体)を殺すということは、ある意味で(すなわちその人にとっての)世界を終わらせるということであり、その意味で人を殺すという営みは神的である。レヴィナスが「殺人は不可能である」と言ったのは要するにそういう意味においてであるとは言えまいか。つまりより正確には「殺人を人として行うことは不可能である」ということであったのではないか。殺すことにおいては、人は実に簡単に神の真似事ができてしまうのである。

 もちろんその対極の、いわば「神の真似事」の困難な極というものが考えられる。すなわち、世界を創造するということだ。しかしこうした作業でさえも「真似事」としてであれば十分に可能である、とは言えまいか。すなわち、ある人にとってはその外側、ほかの可能性(「可能世界」と呼んでしまうことはとりあえずは差し控えるとして)が想定できないような環境を提供する、という程度のことなら。人の世界を消滅させることも、また創造することも、人間にはできてしまう――「人の道」を踏み外すならば。

 つまるところ、こうした「人の道を踏み外す」ことの否定したうえではじめて、我々は安全かつ有意義に「存在論」を云々することができる、ということなのだろう。

 ところでこれはおそらくはベンヤミンが「神話的暴力」といった言葉づかいで表そうとした何事かである。いうまでもなくベンヤミンは「神的暴力」をこれに対抗させようとしたわけだが、果たしてその言葉遣いは適切なものであったのか? 「神の真似事」たる「神話的暴力」を否定する「神的暴力」なるものがあるとして、その具体的表れが「神罰」「最後の審判」だというのであれば、それは随分と子供じみた願望である。そうではなく、ただ単に「神の真似事は所詮真似事であり、いずれ自滅する」ということを指しているのであれば(これは小泉義之の解釈である)、それを「(暴)力」と呼ぶことには無理があるのではないか?

確認のために、ベンヤミンのテキストを引いておこう(岩波文庫版)。

 一切の領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を定めない。前者が罪を作り、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る、前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。

 このような「神話的暴力」と「神的暴力」のわかりやすい対比(と思われるもの)が映像の形で提示された作品として、今年日本でも公開された、2007年9月のビルマにおける反政府デモを描いたドキュメンタリー映画ビルマVJ 消された革命』を挙げることができるのではないだろうか。これはいうまでもなく、暴力的手段で僧侶たちのデモを取り締まろうとする軍事政権の権力と、そのような暴力の行使を甘んじて受けることでそれに対峙しようとする僧侶たちの姿に両者をそれぞれ重ね合わせることができるのではないか、ということである。
 すなわち、後者は現存する権力を維持するための暴力であり、更には国際社会から迫られる普遍的人権という秩序とは異なった、自分たちのの秩序=法を措定しようとするための血の匂いに満ちた脅迫的な暴力でもある。それに対し、前者はそのような秩序のもとでの罪を否定するものであり、「結局は暴力によってしか暴力をとめられないのではないか」というニヒリズムの限界を打ち破り、そのことによって、その現実を知ったものに衝撃を与える・・といった具合だ。

 さて、一方では、「革命の時代」の挫折を経験したわれわれにとって、もはやベンヤミンの「神的暴力」のイメージとして、革命を引き起こす武装蜂起や、その背景となるような民衆の暴動などを思い起こすことは「危険」であり、避けるべきだ、という認識がデフォルトになっている。いうまでもなく、世の中の「革命」と名のつく革命が、権力の圧制から民衆を開放したかと思ったとたん、すぐさま自らの支配のための「法」を措定し、それを維持するために民衆に対して抑圧的に振舞う、という末路をたどらなかったためしがないからだ。このため、今日ベンヤミンに肯定的に言及する人々にとっても、「神話的暴力」を否定する何かだ、というようなことしかいえず、その具体的なイメージをとしては、「最終戦争」とか、あるいは天変地異のようなものがせいぜい挙げられることになる。今日では、「われわれの体内にある制御不能なもの」としての「感染症」がここに加わるかもしれない。

 しかし、たとえ「神的暴力」から地震や台風のような「天変地異」をイメージするのは、リアリティがなく、しかも「暴力」という言葉を使うにはふさわしくないかもしれない。しかし、それを受ける人間たちにすればまさしく「暴力」としか言いようのないものでありながら、それに対して「法」や「罪」が無力になるようなケースとして、たとえば、「動物(あるいは鳥、魚、虫、植物・・)たちによる人間への襲撃」のようなものを考えることができるのではないだろうか? 
 だとすれば、さらに思考を一歩進めて、「動物化した人間」が人間を襲撃するような場合はどうか?これは歴史的に見れば、かならずしもそれほど突飛な発想ではない。たとえば、アレントは『革命について』(ちくま学術文庫版)の中で、フランス革命サン・キュロットをイメージしながら、次のような言葉を書き残している。

 必然性[貧窮]と暴力が合わさって、彼らは抗しがたいもの、大地の力のように見えたのである。

 アレントの定義に従うならば、いわゆる「生存権」や広い意味での「社会権」の要求は、それ自体では「人間」を条件づけるものではありえない。アレントにとって貧窮が忌むべきものであるのは、あくまでも人間を非人間化してしまうものだからであり、貧窮者による「パンをよこせ」という要求はむしろ人間としてのバランスを欠いた「動物」の叫びに近いものとして理解されている。
 逆説にいえば、生存権を求める人々の「パンをよこせ」という要求から生じる暴動は、それが「人間」によって引き起こされた行為ではないからこそ、それ自体では、決して「神話的暴力」にはなりえないものなのではないだろうか?「人間」の段階にすら達していないもの、生存権のみに動機付けられた「動物」は、「神の真似事」をしよう、などということは思いもよらないであろうから。

 話を『ビルマVJ』に戻そう。私たちは、ビデオジャーナリストたちによって隠し撮りされた鮮明な映像から、僧侶と民衆が軍事政権の圧制に対し、「自由」を求めて立ち上がったのだ、というメッセージを受け取りがちである。この映像は映像の捕り手、あるいはビルマの僧侶たち立場に感情移入する以外の見方は不可能といっていいほど困難なものだからだ。

 しかし、この作品が克明に伝えているもう一つの事実、すなわち、2007年々に生じた1989年以来のデモが起きた直接の結果が、軍事政権による燃料価格の引き上げであったことを忘れてはならない。ここで明らかなのは、「社会権」「生存権」が奪われた、少なくとも民衆が奪われたと感じたからこそ、20年ぶりにあのような大きなデモが生じたのだ、ということである。これは天安門事件のケースもいえることだが、海外にいるサポーターとは異なり、現地で日々の暮らしを営む民衆が、自由権のみを求めて立ち上がることはありえないからだ。

 だから、上述の議論を敷衍するならば、ビルマの僧侶と民衆たちの抵抗を「神的暴力」をイメージさせるものがあるとしたら、それが非暴力と宗教的崇高さに貫かれているからというよりも、その根拠はむしろ、それが背景には民衆の「パン(コメ)をよこせ」という、それ自体は動物的な要求によって生じたものだ、という点にこそ求められるのではないだろうか。

 だが、いうまでもないことだが、生物的なヒトが引き起こす行為に、純粋に人間的な行為もなければ、純粋に動物的な行為も本当には存在しない。たとえそれがどんなに「動物」的な欲求によって動機付けられたものであろうとも、その目的を現実の人間社会で実現しようとする限り、かならず「人間」の営みが入り込んでくるからだ。アレントの言葉を借りるならば、「必然性[貧窮]と暴力が合わさった、大地の力のように見えるもの」が、そのまま「大地の力」であり続けることは不可能である。かならず「人間」があらわれて、その力を制御し、仕切ろうとするからだ。「神的暴力」にみえたものが現実に「神話的暴力」に転換していくことの契機も、ここに求められるのではないだろうか(続く・・かもしれない)。