http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.phpより。
ムラカミ・ワールドは「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んで食い止めるという神話的な話型を持っている。
『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフターダーク』、『かえるくん、東京を救う』・・・どれも、その基本構造は変わらない。
「邪悪なもの」は物語ごとにさまざまな意匠(「やみくろ」や「ワタナベノボル」や「みみず」などなど)をまとって繰り返し登場する。
この神話構造については、エルサレム賞のスピーチで村上春樹自身が語った「壁と卵」の比喩を思い浮かべれば、理解に難くないはずである。
このスピーチでは、「邪悪なもの」とは「システム」と呼ばれた。
「システム」はもともとは「人間が作り出したもの」である。
それがいつのまにかそれ自体の生命を持って、人間たちを貪り喰い始める。
システムの前に立つと、ひとりひとりの人間たちは「壁にぶつけられる卵」のように脆弱である。
けれども、「卵の側に立つ」以外に、人間が「システマティック」な世界をわずかなりとも「人間的なもの」に保つためにできることほとんどない。
しかし、「システム」はそれ自体が邪悪なものなのだろうか。
村上の小説に親しんだ者であれば、その小説世界における「邪悪なもの」には二つの系列があることに気がつくはずである。それは、「外部」から訪れるものと「内部」に巣くうものとして端的に区別される。前者は不確実性、超越性、といったものを体現した存在である。そして後者は不確実性が縮減された後に現れる、明快な存在であるはずなのに、決まって何かを決定的に損なわずにはおれない存在として現れる。
そして後者の系列の「邪悪なもの」は、往々にして、本来は前者の系列の邪悪さから自身を守るために構築されたはずの「システム」が、いわば過剰防衛によりその暴力を「内部」に向けるようになり、その結果生じたものという形をとる*1。後者の系列の「邪悪さ」を体現した人物(「納屋を焼く」の納屋焼き男、『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君、『ねじまき鳥クロニクル』のワタヤノボル、『アフターダーク』の白川)が、ほぼ例外なく現代の高度資本主義社会にスマートな適応能力を示す優等生であるのは、そのためである。
『羊をめぐる冒険』に典型的なように、村上の多くの小説では、主人公の前に現れた「邪悪なもの」の根源を探るため、主人公があたかも「宝探し」をするように「外部」への探求を行うが、結局何も得られない、という構造をとる。このことは、「外部」の邪悪なものの存在そのものが、実はシステム内部の人間によって、後から構築されたもの―あたかも国民の起源となる物語が国民国家の成立後に構築されるように―であるということを示唆しているといえるのではないだろうか。そのような倒錯が、近代的システムの暴力性と深く結びついていることは、多くの論者が指摘しているとおりである。
こうしてみると村上の小説が、普遍的な「近代」の二重性の問題、しかも非ヨーロッパの後進国に典型的なそれを深く抱え込んでいることがわかる。急速に近代化を遂げつつある現代中国で村上が絶大な支持を集めているのは、偶然ではない。
さて、こういった後進国における「近代化」の二重性の問題を、独自の姿勢で追及した日本の思想家として、竹内好の名を挙げることができるだろう。彼は、「近代のゲームのルール」に優等生的に順応しようとした戦前の日本の姿勢を、奴隷を解放するのではなく、自らが奴隷の主人となろうとするものだとして批判し、そこに一連の侵略戦争につながる根源的な「邪悪さ」を見ようとした。そして、そのような優等生的ではない近代化を遂げようとしている、いわば近代の圧倒的な魅力と暴力に「もがき苦しみながら(「掙扎」)、不器用に」向き合おうとしている存在として毛沢東の現代中国を評価した*2。
そして、かつての日本の「近代的システム」への優等生的かつ過剰な順応*3こそが、満州事変以降の侵略戦争とその後のカタストロフィーにつながった根源的な要因だ、という歴史観において、村上と竹内の問題意識はぴったり重なっているといってもよい。
竹内と村上のもう一つの共通項は魯迅である。村上が魯迅に大きな影響を受けており、小説の中で「現代の阿Q」ともいうべき人物を登場させていることは、藤井省三が指摘するとおりである。「根源的に邪悪なもの=前近代的な社会の遺制」に対抗するためのものであったはずの近代化=西洋化が、より残酷な顔を見せて庶民たちを苦しめるという現実―これはまた典型的な後進国の知識人である魯迅が抱えていた問題意識でもあった。
魯迅の創造したキャラクター阿Qは、近代アジアにおけるホモ・サケルといってもよい存在であり、近代化の途中で出現した「例外状態」のなかで、まさに「殺しても罪に問われないもの」=ホモ・サケルとして殺されていく。このような無数の阿Qたちへの注目は、近代的システムの圧倒的な優位性を認めながらも、それをそのまま優等生的に受け入れるのではなく、それにたいし「もがき抵抗すること」―具体的には近代化の過程で損なわれた無名の個人たちの生にこだわり続けること―を推奨するという、魯迅=竹内の問題意識につながっていく。そしてそれは容易に、『アンダーグラウンド』やエルサレム賞スピーチにおける村上の思想上の立ち位置を連想させる。
さらに付け加えるなら、加藤徹による「羊の中国、貝の中国」の対比を用いると、両者の中国イメージが「貝の中国」に大きく偏っている点も指摘できるかもしれない。村上の中国人像はおそらく戦後神戸に住んでいた華僑―そのほとんどが沿海南部の出身者である―のイメージに大きく規定されている。また竹内が理想化された形で現代中国を論じる際、「長城の向こう」に住む、漢族以外の少数民族を視野に入れていた形跡はない。
その意味では、『羊をめぐる冒険』という小説のタイトルが何よりも多くを語っていよう。村上にとって「羊の中国」はあくまで冒険の対象となる、「外部」の象徴である。いうまでもなく、こういった村上の「羊の中国」へのある種のよそよそしさは、『ねじまき鳥クロニクル』にあたるモンゴル兵や「皮剥ぎボリス」のイメージにつながるものである*4。
どうも困ったこと(?)に、現在竹内好を積極的に評価しようとしている人々の多くは、ぱっと見たところ村上春樹をあまり好きそうではない―あるいはそのことを立場上公言しにくい―人たちのだが、この両者を比較してみると案外面白いことがいろいろ出てくるかもしれない、ということはこの機会に指摘しておきたい。
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