梶ピエールのブログ

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だめだこりゃ

 内田樹氏の『街場の中国論』が店頭に並んでいる。以前のブログでの記述からある程度予想できたことではあるが、はっきり言って全くお勧めできない内容である(よってリンクは貼らない)。「儒教圏のすすめ」「専門家批判」など、本書の主張の是非についてはとりあえずおいておくとして、やはり看過できないのは事実関係についての記述の誤りだ。 この本の中に具体的な歴史に関する記述はそれほど多くはないのだが、そのなかでも明らかにおかしい点が混じっており、読むとかえって混乱するので、中国に詳しくない人はまず読むべきではない。かといって中国に詳しい人間が読んでもそこから得られるものはほとんどないだろうけど。

 最もひどいと感じたのは第二次世界大戦後の台湾に関する部分で、日本の敗戦から二.二八事件とその後戒厳令の発令を経て国共内戦終結、さらにその後の白色テロ、という基本的な事実関係に関する知識があやふやなために支離滅裂ともいうべき記述になっている。二.二八事件を「台湾人が国民党系の外省人を見つけ次第殺すというテロ」という記述で済ませているのはその典型だ(194ページ)。内田氏はこのくだりを書くのに候孝賢の映画『悲情城市*1を参考にしたようだが、他に関連書籍を全く当たっていないのではないだろうか。『悲情城市』は専門家でさえ「大変わかりにくい」と指摘する作品であり、この映画を観ただけでこの時期の台湾の歴史を語ろうとすればわけがわからなくなるのは当然だ。

 また、39ページの「チベット紛争」という表現もおかしい。中国政府からすれば「チベット動乱」であり、チベット亡命政府はこれを「ラサ蜂起」と呼ぶ。もちろん中越戦争や中印・中ソ国境紛争と同列に置くべきではない。「独立の動きのある少数民族」の中に満州族朝鮮族を入れている(220ページ)こと自体民族問題に関する著者の無理解を物語っている。江沢民の行った愛国教育が「反胡耀邦キャンペーン」だったというのも首を傾げざるを得ない(218ページ)。このほか、具体的な誤りとはいえないかも知れないが、毛沢東時代の中国を語る際にソ連の存在が完全にスルーされているのは奇妙である。特に1972年の日中国交回復およびその前後の中国外交の展開を、ソ連との対立を無視して理解しようとするとそれこそ訳がわからなくなる。このことと、内田氏が90年代以降の反日キャンペーンについて、周恩来らによる国交回復時からの深慮遠謀の結果である、といった苦しい解釈を展開していることは無関係ではないだろう。

 まあ、とりあえず気がついたのはそんなところだが、これらの指摘には決して専門知識は必要ではなく、ちょっとネットを検索すれば誰でもおかしさに気付くことができる、ということは言っておきたい。それよりも問題だと思うのは、後書きに「自分はどうせ中国をメシの種にしていないのだからこの本の中に間違いがあるのは当然だ」といった言い訳とも開き直りともとれる発言があることだ。もちろん、自分のブログなどで好きなことを書く分には特に目くじらを立てる必要もないだろう。しかし彼はこれを大学院の講義として取り上げ、それをまとめて出版までしているのである。果たして「メシの種にはしていない」などという言い訳が通用するだろうか。別に題材が中国論だからというわけではなく、言論人として不誠実な態度となじられても仕方がないだろう。

 以下は蛇足。
 かつて内田氏は、スーザン・ソンタグに代表されるアメリカの知識人が、ユーゴ内戦など解決の難しい国際問題について「自分達の持てる知的リソースを傾けて真摯に検討し、より「正しい」結論を導き出すべきだ」という一種の強迫観念にとらわれており、むしろその「生真面目さ」こそが現実の国際問題をよりややこしくしているのかもしれないという可能性に全く気付いていないことを痛烈に批判した(『ためらいの倫理学』)。この批判は恐らく正しい。

 だが、このようなアメリカ知識人の「生真面目さ」に対する批判が正しいからといって、なんでも「不真面目」に(すなわち明らかに自分の知的リソースが不足した事柄について、十分な検討を行わず)語りさえずればよい、ということにはならないはずだ。「「真面目に」問題を検討しつつ、かつ自らの議論の正しさに対し懐疑の目を向ける」ことだって可能なはずだし、あるいはもっと単純に「自分がよくわからないことは語らない」でもいいわけだし、そのほうがずっと誠実である。この本に限らず、近頃の内田氏の書いたものからは、「不真面目な語り」を無理してでも行おうという一種の強迫観念(=生真面目さ)のようなものが感じられ、読んでもさっぱり面白く感じられないことが多い。今回の僕のエントリがあまりに生真面目で、強迫観念にとらわれており、読んでもさっぱり面白くないと感じられるとすれば、それは恐らく彼自身のテキストに潜んでいるそういった「意図せざる堅苦しさ」のせいではないだろうか。

*1:ちなみに本の中では『非情城市』となっている。id:hanak53:20070610:p3参照。おそらくそのせい?で僕も最初思わず「非情・・」と書いてしまったというのはここだけの話です。