日本では、企業の勝手にさせとくととかく汚いことをして金を稼ごうとするので、「正義」を実現するにはお上が適度に規制したほうがよい、という観念がまだ強い、ような気がする。
しかし、多くの発展途上国では、多少とも名の通った多国籍企業の方が腐敗しきった政府よりよっぽど「倫理的」であるというのがもはや常識となりつつある。もちろん、労働CSR(従業員の労働条件や人権に関する企業の社会的責任)という概念の普及がその背景にある。
- 作者: 吾郷眞一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/08/17
- メディア: 新書
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (10件) を見る
この本は、一般にはまだあまりなじみのない労働CSRとはどんな性格のもので、グローバル経済の中でどんな意味を持つのか、ということについて分かりやすく解説してくれている好著だ。企業が遵守しなければならない労働基準としては、もちろん国内労働法があるし、そのほかにILO(国際労働機関)などが定める国際的な労働基準も存在する。それらに対し「労働CSR」は、法としての規範性は持たないものの、企業が「わが社はこれらの労働基準をきちんと守ります」と社会に向かって宣言したり、あるいはSAIとかFLAとかいった民間の認証団体に「あんたのところは労働基準を守ってます」と認めてもらうことによって、煩雑な司法プロセスを経なくても労働に関する法の実効性が高められるという効果が期待できるのだという。例えば、「児童労働を行っている企業とは取引しない」というCSRが広く認められることで、少しでもそういった疑いがある企業は国際貿易から締め出されるため、わざわざ司法が介入しなくても自然と児童労働に関する法的規範が守られるようになる、というケースを考えればいいだろう。
本書によると、かつて途上国の企業に劣悪な労働条件で生産を請け負わせているとして攻撃されたナイキなどの他国籍企業は、いまや率先して高邁なCSRを掲げ、それを盾に進出先での取引企業における労働争議に積極的に介入し、企業内に組合を作ることを支援したり、労使対立の調停に乗り出したりするケースも珍しくないらしい。その背景は明確で、そうしたほうが企業の利益になるということをこれらの多国籍企業は完全に理解しているからだ。途上国の労働者を低賃金で長時間働かせたり、児童労働を認めない、というCSRをアピールすることによってが企業の評価や株価が上がる、というのはいまや常識である。またそのことによって若干生産コストがあがっても、消費者の意識さえ高ければ最終価格に転嫁できるので問題はない。
もともと労働者を保護する法体系が整っていない一部の途上国では、政府による労働行政よりも多国籍企業のCSR関連の部署の方が高い権限を持っている、というのもあながち誇張ではないらしい。そもそもこれら大企業の営業規模は中小規模の国のGDPをはるかにしのいでいるのだから、当然といえば当然かもしれない。
でもまあ、これで途上国から児童労働とか搾取工場がなくなるんだったら、それはそれで結構なことのようにも思える。だが、そこに落とし穴はないのだろうか。
本書の著者である吾郷氏は、こういった途上国に進出した多国籍企業が、民間の認証機構やNGOと組んで、CSRを錦の御旗として振りかざすような状況に警鐘を鳴らしている。
まず、多国籍企業のCSRや民間機構によるその認証は、ILOのような国際機関の定めた労働基準と違い、立場の異なる複数の当事者の粘り強い「すり合わせ」により作成されたものではない。どうしてもそこに先進国の価値基準が一方的に入り込んでしまう可能性があるのだ。その生産に児童労働が用いられたとされるサッカーボールに対するボイコット運動が、かえってインドなど途上国の子供たちの生活を困窮させたり、より条件の劣悪なヤミの労働に追い込んだとして批判を浴びたのは有名な話だ。しかし、今後先進国、特にアメリカの価値基準に基づいて作成され、必ずしも途上国の固有の状況を配慮しているとはいえないCSRがその権限をますます高めていくことで、同じようなことがまた繰り返されていくかもしれない。
また、上記のナイキのケースのように、多国籍企業がそのCSRを盾に現地企業の労使対立に介入したり、組合の結成を助けたりするのは、法律でいう「自力救済」に当たり、国内法でも国際法でも違法行為である可能性が高い。いくら途上国の腐敗した政府よりナイキの考え方のほうが「進んでいる」ように見えても、このようなあからさまな違法行為を行うことが容認されてもいいのか、と吾郷氏は疑問を投げかけている。
このような、本来法的規範のような拘束力を持たないはずのCSRが場合によっては「法」をも超える権限を持つにいたった背景には、明らかに反スェットショップ運動のようなグローバルな消費者運動の高まりがある。これらの運動は、多くの場合途上国の政府や現地の企業などではなく、多国籍企業を対象として展開される。それはもちろんそのほうが影響力が大きいという実践的な側面もあるだろうけど、そこに「人権という概念すらまともに理解できていないかもしれない途上国の指導者」に何を言っても無駄だが、「人権の大切さはちゃんと分かっているくせに金儲けのためにそれを忘れたフリをする多国籍企業」に文句を言えば聞いてくれるかもしれない、という発想、いわば「白人の重荷」を果たそうという発想があるのは否定できないのではないだろうか。その結果形成されたCSRを盾にした多国籍企業の振る舞いが多分に「白人の重荷」の呪縛を受けたものになるのも、いわば当然のことではないだろうか。
吾郷さんは、日本の企業や市民・学者が、このような「危険性」があることも含めてCSRに対する認識を高め、そこに何とか英米中心的なものではない、多様な価値観を盛り込んだものに作り変えていくよう努力していくことを提唱している。それはもちろん正論だと思うけど、最大の問題は今の欧米においてこのような消費者運動の「諸刃の剣」ともいうべき側面がほとんど認識されていない点ではないだろうか。バークレーで会った裸のねーちゃんたちに「あんたらのやっていることは実は多国籍企業の持つ権力を強めることにほかならないのだ」、と言ったとしたら(実際にはそんな勇気はないが)、彼女たちははたしてどんな反応をしただろうか。