梶ピエールのブログ

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「公正な分配」をめぐる競争

 3月5日より中国の全国人民代表が始まり日本のメディアでも一斉に温家宝首相の演説の内容などを報道したが、興味深いのはそれまで欧米メディアに比べてそれほど高い関心が払われていたとは思われない、烏坎村の選挙についての取材報道が相次いでいることだ。そのほとんどが「公正な選挙の実施」「住民の民主化要求が実現」といった欧米メディアのフレームワークに近い形で行われているように見受けられる。

 しかしながら、僕自身はこういった報道スタンスには物足りないものを一貫して感じてきた。現在「農村=都市一体化」を政府が取り組むべき最重要課題の一つとして位置づけている中国では、その際に不可欠な土地開発をめぐる問題点と、農民土地市民の待遇差に起因する戸籍改革という中国社会の問題点の解決をめぐって、地域間で盛んな「制度間競争」が繰り広げられている。烏坎村の事例も、基本的にそのような文脈から理解されるべきだと個人的には考えているからだ。

 先月刊行された『アジ研ワールド・トレンド』の2月号に発表した文章(「農村都市化の経済学−農地の非農業転用をめぐる問題点−」)がこの問題を扱っているので、少々長いが一部を以下に引用する。

 最後に、今後の農村都市化のあり方について、農地開発主体と開発利益の分配問題の観点から、それぞれの地域において行われている取り組みをいくつか取りあげてみよう。
 まず、第一の類型は、従来の「土地備蓄モデル」である。このモデルは全国で広く採用されているが、近年には土地開発を通じた利益の分配を巡って農民−集体−地方政府間の矛盾が先鋭化するなどの問題が生じている。
 第二の類型は、「事実上の土地私有化」である。これは、個別農家の土地に対する最終的な処分権、および用益権を認めることにより、現在政府・開発業者が取得している土地開発のレントへの請求権を農民も取得することを通じて、土地使用権の供給が地方政府に独占されていることによる厚生損失を解消しようとするものだといえるだろう。
 しかし、このやり方は、土地の所有権を完全に私有化するのは社会主義体制の根本的な見直しを必要とするものであり、そう簡単に実現するとは考えられないこと、さらに土地の集約・開発の際における農家間の意見集約が非常に困難だと考えられることから、さほど現実的なものとはいえない。
 第三の類型としてあげられるのは、土地の集団所有という枠組みの中で、より市場メカニズムを活用した土地の使用と利益の分配を実現しようという、村レベル(集体)が主体になった土地経営を行うやり方である。これは、土地を村のレベルで合作社や株式会社の形式を通じて管理し、非農業転用も含めて自主的な運用を行い、土地開発の利益は集体が管理するが、現地の農民に配当という形で分配される、というものである。
 この類型のモデル地区としては、広東省南海県のケースが有名である。同県は、行政村(村民委員会)を単位として株式会社を作り、集団所有の土地の開発・レンタル・経営などを村人達が自主的に設立した「土地株式会社」を通じて行っているケースとして知られている。
 このほかにも、村ぐるみで専業合作社を設立し、ブランド作物の生産・流通を行うケースや、「城中村」のように、村が上級地方政府の許可を得ずに実質的な都市開発を行うのもこの第三の類型に分類される。これらのやり方は、土地の集団所有という枠組みの中で、農民の利益を保護し、土地の競争的な提供を通じて不動産価格の低下をもたらすことが期待されている。ただし、この方式では、集体−地方政府間の利害対立、あるいは開発の利益を巡る集体内の矛盾が生じる可能性がある。また、土地の収益性には大きな地域格差が存在するため、そのままではむしろ拡大する傾向がある農村間の経済格差の問題にどのように対応していくのか、ということが課題となっていくであろう。
 最後に、強力な地方政府が土地改革と戸籍改革を一体になって進め、開発によって得られる利益を地方政府がコントロールしつつ、農民に対して住宅や社会保障の提供などを通じて一定の利益の分配を行うという第四の類型を挙げておきたい。中でも近年注目を集めているのが「重慶模式」である。これは、基本的には政府が主体になり土地収用と払い下げを行うという「土地備蓄モデル」を基本的に維持するものの、政府が土地開発に伴うレントを農民に還元することを通じ「農民と都市住民の平等化」を実現することを謳ったものである。例えば重慶市は、2020年までに1000万人(2011年までに338万人)の農家に都市戸籍を与えると共に、低所得者向けの集合住宅、都市住民なみの社会保障を土地提供者に付与すると公表している。
 このようなやり方を通じた農村都市化は、基本的に「優れた指導者が率いる慈悲深い政府」という一種のパターナリズムを前提するものである。その意味では重慶市が「打黒唱赤」(汚職告発と革命歌の斉唱運動)が実行されている都市として知られているのも偶然ではない。また、農民に対する社会保障と低価格の住宅の補償という分配に重きを置いた政策を実行する反面、その財源を地域の資産価格という市場要因に頼らざるを得ないという大きな矛盾が内在しているということには留意が必要であろう。

 上の文章における「土地備蓄モデル」とは、地方政府が土地の収用・供給を独占的にコントロールすることによって莫大な土地有償譲渡収入を手に入れ、その資金を開発資金として再投資するという地方政府主体の農村都市化のプロセスのことを指す。

 広東省の南海県などの事例のように、農地の非農業転用の具体的な方法や利益の配分方法について、行政村がかなりの決定権を持って行うケースは広東省内では決して珍しくない。その意味では今回のあくまでも広東省という地域的な特性が大きく働いた事例だと考えた方がいいだろう。現に、いくつかのメディアで「広東モデル」といった言葉が用いられているように、決して中国全土で実現可能なやり方ではないと考えられる。 
 また、上の文章で述べたように、鳥坎村のケースとは正反対の事例だと一般には理解されている「重慶モデル」も、農地の非農業転用に伴うレントの配分方法をめぐる「処方箋」という点では実は「広東モデル」と同じ意味合いを持つものだといってよい。この二つのモデルの違いは、土地開発に伴うレントの「公正な分配」を、いわば上から行うか下から行うかの違いにしか過ぎない。

 従って、住民の無意識を反映した「一般意志」によって現実の政治が動かされれる状況を(東浩紀氏にならって)広義の「民主」と呼ぶならば、鳥坎モデルも重慶モデルもどちらも「中国的な民主」である。こうした認識に立って初めて、現在の中国において広東と重慶(およびそのトップ)にスポットライトが当たっていることの意味もよく理解できるのではないだろうか。