梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

中国の現状と分析者の立つ位置


 前回のブログエントリで、言及した平野聡氏の論説について、「その烏坎村の「自治」をめぐる評価には基本的に同意するものの、タイトルの「真の民主」という表現を含め、若干の違和感を抱いた」と書いた。しかし改めて彼の文章を読み返すと、どうしても違和感しか抱けない箇所に突き当たってしまう。例えば、以下のような箇所。

中華人民共和国がもし本当に「統一された多民族国家」であるのならば、その一部分で始められた民主的な地方自治の試み=烏坎モデル(?)は速やかに全国へと広げられるべきであり、当然の前提として政治的な意見表明の自由も認められるべきであろう。しかしそのようなことになれば、少数民族が即座に中国からの独立を求めることになるのは、2008年以後のチベット問題、09年夏のウルムチ事件、そして11年の内モンゴル抗議運動など、漢人少数民族対立が極点に達している状況からして余りにも明らかである。

 何回か読み返してみたけれども、ここで言われていることにはいくつかの点で承服できない。まず、いくら少数民族居住地区において激しい暴動が起こったからといって、あるいは共産党の統治に多くの人々が不満を抱いているからといって、即座に独立を求めるのが「民意」である、と直ちに断定してよいものだろうか。

 そもそも、現在の中国では民族自決権は認められていないので、憲法を改正でもしない限り「少数民族が即座に中国からの独立」を行うことが認められることはない。たとえ民族主義に関する現行の言論規制がかなり緩和されたとしても、「国家のかたち」を大きく変えない限り実現の可能性がない主張が、すぐさま多数派になるとはちょっと考えにくいのではないだろうか。
 僕自身は、前回のエントリで記したように、近年の少数民族居住地区において暴力的な衝突が相次いで(連続する焼身自殺も、無力なものがその暴力を自分自身に向けた結果、として理解すべきである)いる背景としては、少数民族が「少数者」としての、あるいは多数者としての正義さえ、まっとうな形で主張する道筋が閉ざされている点こそが重要だと考えている。そして、そこで主張することが閉ざされている「正義」とは、必ずしも「独立」の主張に回収されるものではないはずである。

 かくして、中国の人々には究極の選択肢が待ち受けていることになる。

 中国における真の自由と民主の実現と国際的な尊敬を望むのであれば、「大漢族主義」の矛盾が根深い現状では少数民族の独立論は抑えられない以上、中国地図が今のかたちであることを諦めなければならない。これは中国近現代史における中国ナショナリズム少数民族の不幸な関係の絶対的帰結である。

 中国の巨大な領域と、漢人主導の共産党が「おくれた」少数民族を多数従えて「正しい」発展に導いていることを誇りに思い、「偉大な祖国」への忠誠を覚えるナショナリストであり続けるのであれば、それらの価値に比べて自らの自由と民主などは全く大したことはないと諦めなければならない。

 注意しておきたいのが、ここで平野氏はこのような選択肢のうちどちらのほうが望ましいのか、あるいは「より穏健な第三の道」がありうるのか、という自身の判断を示していないという点である。つまりこのような「究極の選択肢」という「煽り」に近い表現が用いられていながら、彼自身はどちらにコミットメントするという判断を慎重に避けているのである。つまり、彼は自身の示した中国の現実に関する対立軸について、どちらかに肩入れする、というリスクを負うことはせず、あくまでも中立的な観察者の立場を崩していない、といってよい。しかし、そうであるならば、このような読者を煽るような書き方はやはり慎むべきではないだろうか。上記で書いたように、そのような「究極の対立」の妥当性自体が疑わしいものであるのだから、なおさらそうである。

 先のブログエントリにも書いたように、僕自身は中国的な「公」概念の中に「少数者の正義」を盛り込んでいく試みこそが、そのような「極端かつ悲劇的な二分法」を避けるための重要な条件であり、またその実現のために中国の現状に関心を抱く日本の市民がなし得ることは一定程度存在すると考えている*1。もちろん、その判断が全くの誤りである可能性もある。しかし、他国の事情に関して自分の考えを述べる以上、自分がどのような立場から発言を行っているのか、ということは常に考えているつもりである。
 繰り返しになるが、他国の現状について専門家=中立的な観察者として発言するのであれば、乏しい客観的根拠によってそのカタストロフの可能性を強調するような書き方は、どんな場合でも採るべきでないだろう。特に中国のような隣国については、そのカタストロフをめぐる言説が「日本ナショナリズムの過激な信念」を刺激する可能性が常にあるということには、「中国ナショナリズムの過激な信念」に警鐘を鳴らす論者であれば、当然気がついていなければならないのではないだろうか。

気鋭の中国史研究者としてマスメディアの発言も多く、影響力の大きい論者の発言だけに、あえて苦言を呈しておきたい。

*1:東アジアにおける「公共性」の観点から日本に暮らす市民が人権問題・民主化など中国の抱える現実についてどのように考えるべきか、という点については拙著『「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか』の第8章参照。