フェアトレード運動については今までどちらかと扱うのを避けていたのだが、前回予告したので、頑張って論じてみる。一般的にはフェアトレード運動も反スウェットショップ運動と同じく先進国の「倫理観」に支えられた理想主義的な運動だと思われがちである。しかし本当のところはどうか、ということを考えてみたい。
さて、フェアトレードの対象となる商品は工芸品や衣類も含め多岐にわたっている。しかし最も影響力が大きく、市場浸透率も高い商品はというと、それはコーヒーだということに意義を挟む人はあまりいないだろう。もちろん、コーヒーがフェアトレードの主力製品になっていることにはきちんとした理由があるし、したがってフェアトレードの存在意義を論じるうえでもコーヒーは最適の題材であるはずだ。
で、世界のコーヒー貿易とフェアトレード運動の関わりについて、僕が知っている限り最も明確な説明を行っているのが、すでにあちこちで話題になっている以下の本である。
- 作者: ティム・ハーフォード,遠藤真美
- 出版社/メーカー: ランダムハウス講談社
- 発売日: 2006/09/14
- メディア: 単行本
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この本の著者、ハーフォード氏はかなりのコーヒー党らしく、この本には何度もコーヒーの話が出てくる。したがって彼がコーヒー貿易の問題点を指摘しているのも数箇所にのぼるのだが、それらの要点を整理すると、次のようになるだろう。
1.コーヒーの価格に占める原材料費はわずかなものでしかない。コーヒー一杯あたりにかかるコーヒー豆の原価は恐らく数セントほどである。
2.さらに、コーヒー豆の価格はかなり長い間にわたって低下を続けている。価格低下の原因は世界的な生産過剰にある。
3.世界的なコーヒーの生産過剰が生じているのは、もともと貧しく他に代替的な産業をもたないような熱帯地域において栽培が適していること、生産に高度な技術がいらず新規参入が容易なことから生産管理が難しいこと、などの理由による。
4.フェアトレード団体はコーヒー豆を生産者からプレミアム価格で買い付けて、生産者の生活を支えている。フェアトレードのおかげで年間所得が二倍近くに増えた農家もいる。
5.コーヒー会社は消費者に対し、フェアトレードによって仕入れた商品を他の商品よりも高い価格で販売することがある。これは、コーヒーを「何らかの理由があれば少し多めに支払ってよい」という客と「ギリギリの値段でなければ買わない」という客との間で異なる価格付けをして売るという、「差別化戦略」としての意味がある。
6.コーヒー生産国が世界的な価格低下にもかかわらずコーヒー豆の生産に頼らざるを得ない背景には、欧米の農業保護政策により、他の農産物では輸出の利益が見込めないということがある。欧米諸国ではコーヒー豆は生産できないので、そういった国の農家はコーヒー豆に関税をかけることには関心がない。このため、貧しい熱帯の途上国でも参入が可能なのである。
このまとめのかなりの部分、1.から4.まではすでにフェアトレード団体自身をはじめとして、繰り返し語られてきた説明と言っていいだろう。ネット上でも似たような文章はいくらでも見つけ出すことができる。ハーフォードの本が優れているのは、それに5.6.を付け加えているところである。
5.からは何を読み取るべきだろうか。『まっとうな経済学』では、コーヒー一杯に上乗せされるべき「フェアトレードで購入した豆」のプレミアム価格はどう考えても1ペンスにも満たないにもかかわらず、実際は10ペンスほど高い価格付けをしていたコスタ・コーヒーの例が紹介されている(これは抗議の結果取りやめられたようだが)。
途上国を救おうという気持ちを金儲けの道具にするなんて「けしからん」と思うかもしれない。しかし、むしろそのようにしてコスト上昇分を消費者に転化することが容易だったので、フェアトレードコーヒーはこれだけ広がったのだ、というふうにも解釈できるのではないだろうか。
一般に、フェアトレード運動で行われているのは先進国の消費者から途上国の生産者への「援助」だと思われがちである。しかし、もしこの運動に経済学的意味があるとすれば、その最も重要なものは「生産者から消費者へのリスクの転化」にあるように思われる。
コーヒー豆の世界価格とフェアトレードによる買い付け分の差額を「援助」だと解釈するなら、その「援助額」=「公正な買い付け価格」の設定において新たな難問が生じる。その地域の他の収入機会よりあまりに高すぎる価格で購入したのでは、新たな参入者が増え、かえってコーヒー豆の供給過剰を助長してしまうだろうからだ。
しかし、フェアトレードによって「生産者から消費者へのリスクの転化」のみが行われるとしたらどうだろうか。例えば、もしコーヒー豆の価格が、農家にその地域の他の収入機会におけるのとほぼ同等の収入を、天候や世界市場の変動に左右されず長期間にわたって保障するような水準に設定されるなら、コーヒー市場への過剰な新規参入やレントシーキングは生じないはずである。途上国の農村においてたとえ所得の期待値が同じでも毎年の変動を小さく抑えることにより大きな厚生水準の向上が見込めることは、「開発のミクロ経済学」の成果が示すとおりである。
ただ、そのためには誰かが価格変動のリスクを負わなければならない。そういった農業生産にかかわるリスクをコーヒー農家からコーヒー会社と消費者に転化するという機能こそ、フェアトレード運動が本来担うべき役割なのではないだろうか。もちろん、コーヒー会社が単独でそのリスクを担ってもよいわけである。しかし、最終的にそのリスクを消費者に転化できる道が残されていたたほうが、コーヒー会社もより積極的にリスクを負いやすいだろう。
「フェアトレードコーヒーを高く売りつける」というコーヒー会社の戦略を頭ごなしに非難できない(すべきでない)理由は、たぶんここにある(つづく)。