梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

リスク社会論と中国

 このところ、リアルもネットも震災と原発をめぐる問題が多くの人の関心を占めていて、中国への関心は二の次だったというのが正直なところだろう。だが、この数ヶ月の間に、中国の社会では非常に重大で根本的な動きがいくつも生じているし、個人的にそれらの現象と日本の3.11以降の状況とは、どこかで深くつながっているような気がしてならない。

 その「つながり」を考える際の一つのキーワードになるのが、「リスク社会」ではないだろうか。いうまでもなく、「リスク社会(危険社会)」とは、ドイツの社会学社ウルリヒ・ベックによって提唱された、「産業社会」に対比される、後期近代における社会のあり方を象徴する概念である。前近代社会並びに産業社会においては、人間の生活に訪れる脅威・恐怖は災害や感染症といった自然に起因するものであり、前近代においてはそれを宗教や伝統的な慣習によって、産業社会においては科学やテクノロジーによって「克服」することがはかられる。
 それに対し、リスク社会ではむしろ、産業社会において発達した科学やテクノロジーあるいはそれらによって作り上げられたシステムに起因するものが、生活を脅かす危険として認識される。それまでの社会との大きな違いは、リスク社会における危険が全て人間の選択の結果として表れることであり、そこにリスク社会特有の「息苦しさ」「逃げ場のなさ」の感覚の源泉があるといってよい。本書におけるベックの問題意識が、チェルノブイリ原発事故後の放射線物質への脅威によって大きく規定されていることから、原発事故後の日本においてある種の切実感をもって彼の議論が参照されるのも、当然と言えば当然だといえる。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

 たとえば、この5月に東大駒場で行われ、ニコニコ動画でも放送された、3.11以降の公共哲学とリスクコミュニケーションのあり方を問うシンポジウム「震災後の「正義」の話をしようーポスト3.11の公共哲学」の中で、ある出席者が、「原発のようなリスク集中型の技術は、21世紀にはもはや時代遅れである」という発言を行ったのが印象的だった。これからの原発事故に起因するリスクの大きさが、全体としてどのくらいのものになるかは依然として不確実だが−この不確実さがまさに深刻さを生み出しているのだがー、原発がリスク集中型の、すなわちリスクの不平等な分配に支えられた技術だと言うことは、疑いの余地がないだろう。さらに言うなら、かつての産業社会化まっただなかにあった日本社会において、過疎地と言われた地域に富の配分とちょうど逆向きにリスクの配分がなされてきたことの意味が、改めて問い直されていることも間違いないと思う。

 さて、冒頭で述べたように、3.11以降の日本の現実と中国がどこかでつながっていると感じられるのは、中国はまさに産業社会からリスク社会への変化を経験しつつあるにも関わらず、そのことを十分に社会あるいは国家として認識されていない状態にある、と思われるからだ。ベックの表現を借りれば、中国社会はすでに近代化に伴うリスクを解決する際の近代化−「再帰的な近代化」−の必要性に駆られていながら、様々な要因からその実現が妨げられているのではないだろうか。

そのことについて論じるためには、ベックの「リスク社会論」における、一つの重要な欠落について指摘せねばならない。そこにみられるのは、現実の発展途上国がしばしば「外敵」の脅威への対抗を原動力として(前期)近代化を遂げてきた、という事実に対する認識の不足である。近代化、あるいは産業社会化は、必ずしもベックの言うような自然や伝統を克服することを目的として推進されるばかりではない。むしろ、非欧米社会において圧倒的に多いのは、脅威となる外敵に対抗するための「富国強兵」政策として、それがなされるケースではないだろうか。例えば毛沢東時代の中国も、当初は国民党とアメリカ、そして50年代後半以降はソ連という圧倒的な外敵への対抗の必要性から、重化学工業に重点をおいた産業社会化を急速に推進しようとした。そして、このような外敵への対抗として近代化が駆動していった場合、そうでない場合よりも「リスク社会」への転換が遅れがちである、いや、「リスク社会」に転換したあとも、国家や国民がそのことを認識するのが遅れがちになる、という傾向があるのではないだろうか。



 たとえば、毛沢東時代における、大躍進による大量餓死や、文革期の政治闘争による悲惨な暴力事件の発生は、人為的な選択の結果引き起こされた「リスク」であるということもできるかも知れない。しかし、当時の人々は決して事態をそのようには認識しなかった。それはあくまで、いつ襲ってくるかも知れない外敵に対抗するために、指導者がやむを得ず行った「正しい」政治的決断の結果、引き起こされた現象だ、と考えられたからである。それが、選択の余地がない行為の結果引き起こされたものである限り、地震津波に襲われたのと同じで、それは近代化によって人為的に生じる「リスク」ではないからである。それは、戦時下において日本人が被った苦難が、「リスク社会」に起因するものとは通常認識されないのと同じだ、といえるかも知れない。

 それでは、現在の中国社会はどうか。もちろん、未だに多くの貧困人口を抱える中国が未だに「産業社会化」の途上にある、という見方もあり得るだろう。しかし、毛沢東時代と比べてみても、その社会は紛れもなくリスク社会としての側面を持ち始めている。特に、当時と比べ、現在の中国にとって脅威となるような目立った外敵が、少なくとも客観的には存在しなくなったということは、非常に大きな変化だと思われる。外からやってくる脅威が弱まったということは、人々は自分たちに降りかかる脅威を、自分たちが人為的に生み出した「リスク」として認識しなければならない、ということを意味するからである。

 近年における中国社会の「リスク社会」としての側面がもっともクローズアップされたのが、2008年の四川大地震ではないだろうか。地震が生じたとき、その直接の被害の大きさもさることながら、手抜き工事によって建てられた校舎が崩壊したことによって、数多くの児童が犠牲になったことに、大きな社会的な関心と非難が集まった。先日当局に拘束されて話題になった現代芸術家のアイ・ウェイウェイは、犠牲になった児童達の名前を一人一人記録するというプロジェクトを始めたことでも知られている。
 なぜこの問題にそれほどの関心が集まったのだろうか。地震はもちろん天災であり、それ自体を避けることは出来ない。しかし、手抜き工事は、政府がきちんとした建物を作ろうとすれば作る能力があったにもかかわらず、資金を節約する、労力を惜しむなどの人為的な選択を行ったことによって、生じた悲劇だからである。他にも、近年中国社会に衝撃を与えたメラミン入り牛乳の問題など、中国が経済発展を順調に遂げるにつれ、このような人為的なリスクによる犠牲者の数は増え続け、それに対する市民の認識も次第に広がりつつある。明らかに、産業社会化の途上にありながら、急速にその産業社会化の副産物によって傷つき、しかもそのことに市民達は自覚しつつある、つまりは「リスク社会」化していっているというのが現在の中国といってよいのではないだろうか。



 そのように中国の現実を考えるとき、一番問題だと思うのは、現代の中国社会を考える上での内外の議論の対立軸が、あくまでも「富の配分」をどうするか、ということであり、そこに「リスクの配分」をどうするか、ということがほとんど考慮に入れられていていない点にある。
 むしろ、中国国内の言論界の状況をみるかぎり、富の分配などをめぐる経済的な言説が政治的なイデオロギーによって裁断されるような動きが、以前にも増して強まっているように思われる。地域を挙げて革命歌を斉唱するなど、大衆動員的な政治手法と、どの独自の再分配政策が話題を呼んでいる「重慶モデル」に対する「左派」知識人による称賛や、自由主義的な市場化路線に反対する左派系論客の言論活動の拠点になっているウェブサイト「烏有之郷」で、毛沢東に対する批判を行ったとして、著名なエコノミスト茅于軾を糾弾する署名運動が繰り広げられたことがあげられるだろう。

 上記にあげたような、「左派」の主要な関心事は、あくまで資本主義化の動きに対抗し、国家による分配の平等を実現するか、というものであり、そこには近代化に伴う「リスク」の分配の問題は、ほとんど抜け落ちている、といってよい。むしろ、そのような「左派」の立場からは、インターネットの言論統制を批判したり、法に基づいた基本的人権の擁護を訴える知識人や弁護士などは、しばしば「ブルジョア的な自由主義」の論理を体現しているものとして批判の対象になる。しかし、現代中国社会の問題として、「富の配分」と同時に、「リスクの配分」も同じくらい深刻な問題なのだ、という視点からは、言論の自由を含めた自由権民主化の問題を避けて通れないことは明らかである。言論の自由こそは、むしろ社会が否応なしに直面せざるを得ない、人為的な選択の結果としてのリスクに対応するためになによりも必要な手段であるからだ。

 だからこそ、政府に近い人々は、社会的なリスクと言論の自由との関係を政治的な理由から意図的に無視している、という側面もあるのかも知れない。例えば、人権や言論の自由の観点から中国政府に批判的な言論活動を行う弁護士や知識人たちは、しばしば「欧米の団体からカネをもらって、共産党政権の転覆を謀る資本主義の手先」だ、といったステレオタイプでの誹謗・中傷を行われることが多い。アイ・ウェイウェイが、脱税という経済犯罪で当局に告発されたことはその象徴である。いまだに富の分配の問題に敏感である中国社会において「奴らは外国勢力の手先になって美味い汁を吸っている」というのは、一定程度の市民の共感を確実に得られる攻撃の仕方なのだ。そして同時にそれは、リスク社会化する中国、という真の問題を覆い隠す役割を果たしていることも否定できないと思う。

 しかしながら、国家権力が以上のような仕方で、自分たちに異議申し立てをする人々を攻撃すること自体、中国が紛れもないリスク社会に足を踏み入れていることを逆説的に示すものとなっている。このような、権力へのチェック機能を失わせる言論抑圧こそが、長期的には社会の最大のリスク要因として働くと考えられるからだ。この問題に、中国社会ならびにそこに生きる人々は、早晩直面せざるを得ないのではないだろうか。中国社会がそのような変革期にあるにもかかわらず、日本の専門家による中国認識も、このようないわば「富の分配パラダイム」にとらわれている部分が依然として多いように思われる。日本が3.11を経験した今、中国の現実も「富の分配」だけでなく、「リスクの分配」の観点から捉え直す時期が来ているのではないだろうか。