- 作者: 與那覇潤
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/11/19
- メディア: 単行本
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この本は最近店頭に並んだばかりだが、早速ネットなど多くの人が感想を論じている話題の書である。古代以来の日本の歴史を「中国化」と「脱中国化=江戸化」という二つの異なる統治原理の間を揺れ動きながら形成されてきたものとして捉えつつ、現代の政治・経済的な混迷を世界が「中国化」する中で日本がうまく対応できないところにあると診断する、明確な視点に貫かれた刺激的な日本社会論ということになるだろうか。
本書で使われている「中国化」とは、具体的には貴族の特権を廃し皇帝一元支配が確立した宋朝中国の統治原理を一般化した概念を指す。それは、権威と権力の一致、政治と道徳の一体化、社会的地位の一貫性、経済の流動化ならびにネットワーク化、によって特徴づけられる。私見では、この「中国化」とは「文明化」と置き換えてもよいように思われる。この「文明」とは物質文明のことではなく、まさしく中国語でいるところの「文明」、儒教に代表される一種の道徳的プロトコルにより支えられる秩序のことと理解できよう。
そういった点から、個人的には、本書の論理構成は、在野の思想史家・関曠野によってバブル期に著された『野蛮としてのイエ社会 (あごら叢書)』に驚くほどよく似ているという印象を受けた。同書の中で関は、当時影響力を持っていた村上・佐藤・公文の『文明としてのイエ社会』の議論を批判しつつ、道徳的洗練とは無縁でありつつも、フロンティアの開拓によって絶えずパイを拡大することによって社会の秩序を保っていた「野蛮な」イエ社会のあり方が、近代以降の国民国家化・産業化に適合し、したがって資本主義的な経済成長(および侵略的な海外膨張主義)を実現したという議論を展開した。本書で象徴的に使われている「脱中国化」した日本社会の像は、ここでいう「イエ社会」のイメージとほぼ重なるといって間違いないだろう。
さて、本書に於ける上述のような二つの統治原理をタテ糸とした日本史の再整理の手さばき、および二つの統治原理が中途半端に混ぜられた状態(「ブロン」)はしばしば日本社会に厄災をもたらしてきた、という指摘は基本的に説得的なもので、特に異論はない。 本書で物足りない点があるとすれば、「資本主義」と「中国化」との関連が今ひとつ突き詰めて考えられていないところにある。関が、江戸時代においてその頂点を極めた「イエ社会」を容赦なく「野蛮」の一言で切ってしまえたのも、彼がもともと資本主義には徹底して批判的な立場であるからにほかならなかった。単純化してしまえば、資本主義自体が道徳性を欠いた「野蛮」なのであるから、「イエ社会」のような洗練を欠いた野蛮な文化的背景を持った国のほうが適合的なのは当たり前で、それをちょっとGDPが世界2位になったからと言って「文明」などと言って威張るのはちょっとイタすぎるからやめとけ、というのが彼の立場だったと思う。
これは裏返せば、道徳的な普遍性に支えられた専制的な国家権力と流動的なネットワークに支えられた社会経済とが遊離しがちな中国型の統治の下では、国民国家の形成は日本より遙かに困難であり、従って(産業)資本主義化の面では遅れを取りがちであった、ということでもある。これは、内藤湖南らの伝統的なシナ学から戦前の村松祐次らの中国研究にも受け継がれた認識とも共通する。関の、あるいは村上らの議論において、日本の封建制についての分析が重視されているのも、それがマルクス、あるいはウィットフォーゲルが指摘したように、「資本主義化」にとって不可欠の段階と考えられてきたからである。*1。
しかし、現在の中国の台頭は明らかに資本主義のグローバルな展開の中で生じてきたということも事実である。したがって、本書の問題意識からすれば、現代のリアル中国における資本主義の展開を、上記のような「道徳的な普遍性」「権力の一元化」と言う意味での、いわば観念的な「中国化」との関係でどう考えるか、ということが大きな課題になるはずである。それは、内藤湖南の展開した「国家と社会の遊離」すなわち「中国的なるもの」の強調と、いわゆる「停滞論」との緊張感をどのように捉えるか、ということともかかわってくる。
例えば著名な中国思想研究者の溝口雄三は、清朝において存在した地方の有力者、郷紳層を中心とした地方自治が中国的な「封建制」の基礎を為すものとなり、清末から民国期にかけての省自治を通じた独特の近代化につながっていったのではないか、という議論を展開している(『中国思想史』)。これは、実は王朝時代の中国にも国家と社会の間をつなぐ制度的な背景があったのであり、それが資本主義の内発的発展を支えてきた、という見方だといえるだろう。この溝口のような見方に従えば、中国も欧米とは独自の道をたどってではあるが、やはりある普遍的な法則の下で資本主義化=近代化を遂げつつあった(あるいは今も遂げつつある)ということになる。またこれは、内藤湖南のように「中国的なもの」を欧米的な近代化の原理とは相容れないものとして強調する立場とは、鋭く対立することになる。
もちろん、もう一つの見方として、現代では金融資本の自由な移動に支えられている世界経済のあり方が自体が国民国家ではなく「帝国」的な国際秩序を前提としたものに変化しつつあるのであり、その「ゲームのルール」の下では中国化した専制的な体制の方がはるかに適合的なのだ、と言う議論があり得るだろう。これはいわば「資本主義の中国化」を唱えるもので、本書も基本的にこの立場に立つといってよい。
しかし、仮にそのような「資本主義の中国化」が事実だとしても、その中で国民国家が完全にその役割を終えてしまうと考える者は少ないだろう。むしろ、社会の流動化を推進するグローバル資本主義の展開は、一方でその防御壁としての国民国家を強固する性質を持つ、ということは多くの論者が指摘するところである。そしてこれはもちろん日本だけの現象ではなく、共産党指導の下での国民国家化を目指す中国でも生じていることである。とすれば、資本主義が「中国化」すればするほど、リアル中国の方は「脱中国化」していくという可能性があることになる。
このように考えると「資本主義の中国化」という概念自体、大いに議論の余地のあるものだといえよう。そもそも一時的に「中国化」がグローバル経済のトレンドになっているように見えても、それが長期的に持続するかどうかは不透明である。しかし、今後の資本主義が本当に「中国化」するかどうか、ということをはっきりと言えなければ本書のような「日本の中国化」に関する議論の結論も見えてこないのではないだろうか。このためにも、本書を補完する議論として清末以降の「資本主義化する中国−30年間の中休みを挟んだ−」に関する考察が必要ではないか、と感じるのは必ずしも僕のような中国屋だけではあるまい。
最後に、著者がこれからの中国とのつきあい方を考える上での提言として述べている、一種中庸的な姿勢、すなわち、「中国化」する今後の国際社会において、ますます普遍的・抽象的な理念が力を持つことを認めた上で、いかにそこに現在の「われわれ」にとって重要な理念−例えば憲法9条のようなもの−を盛り込ませるかが重要である、と言う結論に、僕は諸手を挙げて賛成したい。それは僕が拙著の中で展開した、「東アジアにおいては共同体ではなく、公共圏の形成こそを目指すべき」という主張とも相通ずるように感じるからである。
「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか
- 作者: 梶谷懐
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 2011/10/14
- メディア: 単行本
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