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共和主義ってなんだ?―稲葉振一郎『政治の理論』について−

 先週、京都でこの本の読書会があり、著者ご本人も参加されるというので参加してきました。その後、この本に関する考えや疑問点が徐々にまとまって来たので、ブログ記事の形で公表したいと思います。主催者並びに質問に誠実に答えていただいた稲葉氏に感謝します。

政治の理論 (中公叢書)

政治の理論 (中公叢書)

 ・・考えてみれば「共和主義」とは不思議な概念である。リベラリズムや「自由」に関する本はたくさん出ているが、「共和主義」に関する書籍は専門書以外ではほとんどお目にかかることはない。「民主主義ってなんだ」、「立憲主義を守れ」という掛け声がデモで叫ばれることはあっても、「共和主義ってなんだ」という掛け声を私たち耳にすることはない。後で見るように、キャス・サンスティーンのような現代的な共和主義者の主張は、ほぼ「立憲主義的なデモクラシー」と呼んでいいもののように思えるにもかかわらず、である。

 これは「共和主義」という思想が一般の日本人にとってあまりなじみがないものだ、というだけではなく、「共和主義」自体が論者によって力点の置き方が異なるなど、そもそも多義的でつかみどころのないものだ、という点が大きいだろう。うがった見方をすれば、そのように日本の政治的文脈の中で「手垢のついていない」概念だからこそ、時局に左右されずにより「政治」の本質に迫るためのキーワードとして、あえて「共和主義」を前面に掲げることの意義はある、と言えるのかもしれない。著者にそういう狙いがあったのかどうかはよく分らないが。

 「共和主義」という言葉の多義性については、絶版になっているが2007年に出版された佐伯啓思松原隆一郎編『共和主義ルネサンス』という書物がよい見通しを与えてくれるだろう。
 例えば、編者である佐伯は、1990年第頃より自由市場経済の暴走を警戒する論陣を張っていたことで知られるが、そういった市場経済の暴走を制御する役割を「(意識高い)市民の徳(シヴィック・ヴァ―チュー)」に求める「シヴィックリベラリズム」という概念を早くから提示していた。ただし、佐伯の強調する「市民の徳」は、国家に集約される共同体の中に醸成されてきた「伝統」と不可分なものだとして、国家が「有徳の市民」を形成し、「有徳の市民」が国家を形成する循環を強調する、共和主義の中でもコミュニタリアニズム保守主義に近い議論を一貫して展開してきた。
 一方で、同書に収録されている井上彰の論考「共和主義とリベラル」ではロールズの「財産所有権民主主義」を中心に現代アメリカにおけるリベラリズムと共和主義の親和性について論じている。
 つまり、同書に収録された山岡龍一の論考の言葉を借りれば、「共和主義とは様々な観念の家族、つまり家族的類似をもった諸観念の一群として捉えるべき存在で」あり、「その構成要素となる観念間の関係性は、何らかの論理的構造をもった結びつきというより、むしろ歴史的な偶然性によって付与されたもの」なのである。

 そのような一筋縄ではいかない「共和主義」しかもリベラリズムとの親和性の高いそれが現代においてどのようなアクチュアルな意義をもつのか、それを明らかにしよう、というが本書の基本的な問題意識と言ってよいだろう。
 さて、本書で展開される「リベラルな共和主義」の主張は、著者の専売特許というわけではない。先述のようなロールズの「財産所有権民主主義」と共和主義との親和性を指摘する議論だけでなく、より明確な議論としてはアメリカの憲法学者キャス・サンスティーンのものがあげられるだろう。例えば、「共和主義の復活を超えて」『熟議が壊れるとき』那須耕介編・監訳、勁草書房では、「リベラルな共和主義」の条件として以下の四つの原理が挙げられている。この原理は、本書の説く「リベラルな共和主義」の基本理念ともほぼ重なりあうものだ、といってよいだろう。

1.政治における熟議
2.政治的行為者の平等
3.普遍主義
4.市民活動(シチズンシップ)

 そして、そのサンスティーンらの議論を踏まえた本書の理論的な貢献というのは、1つにはこのような極めて穏当な内容を持つ「リベラルな共和主義」を、情報社会においてなお重要な意味を持つフーコーのいう「生権力」による統治、という問題意識に接合させること、もう一つは市民の生活を支える制度として「市場経済」が肥大化した現在において、このような「リベラルな共和主義」が成立する条件について改めて議論をしていることである。
 こうした著者の問題意識を端的に表しているのが第5章129ページの見取り図である。そこに示された大域的/局所的、自由/不自由を二つの軸とする四つの象限と、それぞれが指し示す領域が、本書全体の見通しを与えるだろう。

一、「行政」<統治>: フーコー的な生権力の領域。
二、「政治」「統治」: ギリシャ的な「市民の徳」、アレント的な「活動」の領域。
三、 市民の事業、社交: 市場経済の領域。
四、庶民の事業、家政: 私生活の領域。

 一や二の領域を三の原理で制御しようとするのが新自由主義であり、二の原理によって一、二の領域を制御しようとするのがアレントなどの古典的な共和主義の立場なのだとしたら、著者がコミットするリベラルな共和主義とは、身もふたもないい方をすれば、一と二と三の間でバランスをとれた状態を、より多数の市民の「政治」「行政」への参加によって実現しようとする立場、だと言えようか。「市場」をうまく運営したり、「政治」が活性化するには、誰かが滞りないシステムの運用、すなわち<統治>を引き受けなければならない。だが、その役割が一部の少数者に集中するのでは、全体主義や独裁に陥ってしまう。それを「底上げ」し、できるだけ多くの市民がそこに参加できるようにしよう。そのための最低限の「資産」を多くの人が手にできるようにするため、再分配政策は正当化される・・本書の主要な主張はそのように要約できるだろう。

 このような本書の議論はある意味きわめてまっとうで、共感できるものである。ただ、「共和主義」や「リベラリズム」といった普遍的な理念に関する本書の議論の妥当さは、一方で本書への不満にもつながる。あえて単純化してしまえば、そこには一般的な「リベラルな共和主義は成立しうるのか」という問いはあっても、「この日本あるいはこのアジアにおいて」リベラルな共和主義は成立しうるのか、という問いは(恐らく意図的に)避けられている。たしかに、一般論として「リベラルな共和主義」が成り立たなければ特定地域においても成り立たないはずなので、問いの順序としては妥当なものかもしれない。

 しかし、本書でも再三強調されている共和主義の困難、それは必ずしも地域的特性とは無関係な功利主義によっては基礎づけられない、「市民の徳」というものを前提とせざるを得ないところにある。それは、恐らく地域の固有性、歴史的な記憶、諸外国との関係性、などといった「普遍化され得ないもの」と無縁ではありえないだろう。例えば、前述の佐伯啓思による「シビックリベラリズム」と銘打たれた共和主義への接近は、1990年代初頭の冷戦の終結湾岸戦争に代表されるアメリカの「帝国」化、PKO協力法の成立に象徴される「国防」への新たな関心の高まり、といった固有の文脈と切り離しては理解できないだろう。よりリベラルな共和主義であっても、この問題は必ず付いて回るはずである。

 もちろん、以上述べたような点についてはこのことに著者も自覚的であり、「有徳の市民」の育成が固有の文脈による公教育や「宗教」に依存してきたことを第9章できちんと指摘している。しかし、であればなおさら、ギリシャ・ローマの伝統がない社会においてどのようにして「有徳の市民」を育成するのか、という難問は依然として残されるように思われる。
 たとえば、リベラルな共和主義の「(普遍的な)徳」とは日本の伝統的価値観と矛盾しないのか。例えば天皇制を維持したままそれにコミットすることは可能なのか。より突っ込んだことを言えば、「お言葉」によって初めて天皇の退位問題に関する法制度が整備されるような状況を、共和主義にコミットする者は看過してもよいのか?・・日本社会という固有の文脈において「共和主義」にコミットしようとする限り、こういった「問い」がいくつも投げかけられよう(例えば、スガ秀実・鵜飼哲 「共和制という問いの不在」参照)。

 また、問題は国内だけに限らない。「共和主義」が「帝国」との緊張関係の中で深く掘り下げられてきた歴史的経緯を考えれば、東アジアにおいて中国の台頭による前近代からの連続性を色濃く残す「帝国的秩序」が現実性を持ちつつある現在において、近隣の国際情勢との関係やそれをベースにした安全保障上の問題も、「共和主義」をめぐる議論に多大な影響を与えることになるだろう。
 ただし、以上のような天皇制、安全保障、近隣諸国との関係をめぐる困難性は、これらの戦後日本政治が棚上げにしてきたからこそ問われているのだともいえる。ということは、逆説的にこれらの問題と「格闘」することを強いる「共和主義」という選択肢を意識することによって、ともすれば袋小路に陥りがちなこれらの問題群に関する議論に新しい展望をもたらしてくれる、という側面がありそうだ。
 そういった観点から、稲葉氏の今後の仕事に注目していきたい。

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