梶ピエールのブログ

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「中国論」の論じ方

日本人は中国をどう語ってきたか

日本人は中国をどう語ってきたか

 子安宣邦氏の『日本人は中国をどう語ってきたか』は、日本思想史研究の重鎮が、明治以来の日本の知識人による中国論の丹念な読み直しを通じて、「日本思想にとっての中国」とはどういったものか、そしてそれが欠落させてきたものは何か、をあぶり出そうとする力作である。著者が中国研究の「外部」の人間であるだけに、「内部」にいる中国研究者にとってはむしろ盲点になるような、鋭い問題提起を展開したものとして読んだ。

 この本で批判されている中国論は、二つの類型にわけることができるだろう。一つ目は内藤湖南に代表されるもので、中国をスタティックな文化論の観点から「他者」として語るものである。この議論は、その「冷たさ」の面、中国の動的な変化を無視するものとして批判される。もう一つは、侵略戦争への反省から中国に好意的なスタンスをとったり、日本のあるべき姿を見いだすような中国論である。竹内好をその原型として、加々美光行溝口雄三などによる中国論がこのカテゴリーにはいるだろうか*1。これらの論者は、第一のカテゴリーとは対照的に、そのことによって中国政府の権威主義的な体制を擁護する結果となったとして厳しく批判されることになる。

 それに対し、著者によって高い評価を与えられるのが、中国の現実にコミットし、その厳しい批判を通じて、日本社会の変革をも目指す、というタイプの言論である。この観点から、尾崎秀実の言論活動が高い評価を受けるだけではなく、尾崎とは政治的に正反対の立場にあるといってよい北一輝も、宋教仁ら中華革命の指導者たちのナショナリズムを正確に理解し、アジア変革のための連帯を模索した存在として、肯定的に語られていることは注目に値する。

 北だけではない。橘樸や森谷克己、平野義太郎といった、戦前に活躍したアジア主義論者をどう位置づけるか、という問題は、非常に難しいものを含んでいる。それはひとえに、彼らによって活発に展開された戦前の「アジア社会論」の問題意識が、戦後日本の学界や論壇にほとんど継承されず、したがってその評価は未だに定まっていないからである。その中で、満洲国建国のイデオローグ的な役割を果たしたこともあって、戦後ほとんどその言説が顧みられることはなかった橘樸のような論者も、著者によって肯定的に評価されている。これは、僕の見立てが正しければ、橘の満洲国へのコミットが、「満洲での理想社会の実現を通じて日本社会を変革する」ことを志向していたからである。ここでは、尾崎や北への評価と同じく、その行動がどのような帰結をもたらしたか、ということよりも、「行き詰まる日本と中国の社会を変革しようとした」という動機面にその評価のポイントが置かれているのである。

 つまり、著者が「中国を語ってきた日本人」を評価する際のポイントは二つあるように思われる。一つは、日中に通底する普遍的な(ぶれない)価値判断の軸を持っており、それに忠実な言論活動を行っているかどうか。という点。もう一つは、中国社会ならびに日本社会が価値判断の軸に大きくずれた状況を目の当たりにしたとき、現実を変革するために何らかのアクション、言論活動を行っているか、という点だと思われる。またその際に、自ら「退路を断つ」リスクの高い行動に出た者には、一層高い評価が与えられる。この二つの評価軸に照らして、北と尾崎という、通常イデオロギー的には正反対だが、中国および日本の社会の変革の波に身を投じたと考えられている思想家に高い評価が与えられるのである。

 僕は、「日中に通底する普遍的な(ぶれない)価値判断の軸を持つこと」そして、「その価値判断の軸に照らして、それと大きくずれた現象が生じたときは、社会に対して何らかのアクションを起こす」ことをよしとする著者の姿勢には、基本的に共感を抱いている。戦後の冷戦体制における「保守・現実路線」と「親米」、「革新・平和主義」と「親中」という対立軸の存在が、いかに東アジアにおける普遍的な価値観の共有と、それにもとづく公共圏の成立を妨げてきたか、ということは、いくら強調しても足りないと思うからである。 しかし、そのような閉塞的な東アジア、なかんずく日中の現実を打破するために参照すべき思想家が尾崎秀実であり、北一輝であり、橘樸である、となると、正直なところ「ちょっと待てよ」と思わざるを得ない。

 というわけで以下では、本書に感じた「ちょっと待てよ」という違和感の由来を整理してみたい(続く)。

*1:ただし、加々美氏が中国の少数民族研究にいち早くコミットし、中国政府の民族政策に対し批判的な視点を打ち出したことを考えれば、本書における彼への批判は一面的すぎるように思う。加々美氏が民族問題の研究に本格的に取り組まなければ、日本の学術界におけるこの問題への認識はより一層遅れだろう。