梶ピエールのブログ

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いただきもの

中国・電脳大国の嘘 「ネット世論」に騙されてはいけない

中国・電脳大国の嘘 「ネット世論」に騙されてはいけない

 おお、何というかかなりまともな現代中国社会、日中関係に関する評論になってるじゃん。

 以下、前著(『独裁者の教養』)を頂いたときに書きかけていた文章をお礼代わりに公開します。

独裁者の教養 (星海社新書)

独裁者の教養 (星海社新書)

 僕たちが生きている近代社会では、だれもが「人間らしく生きる権利」を持っていることになっている。だが、「人間らしい生き方」とはそもそも何だろうか。その重要な構成要素の一つとして、職業や言論活動を通じた「自己実現」をあげたとしても、そんなに異論はないだろう。たとえば、封建的な身分制の下では、自分がなりたいものになることが一握りの人間にしか許されなかった。それに対し、だれもが人間らしく生きられる近代社会では、みんなが努力次第で「なりたいもの」になれる、すなわち自己実現が可能な社会になった・・中学校の公民の教科書的にまとめるとそんなところだろうか。

 しかし、そのような「物語」が流布した場合、自分にとって切実な経験があって「何かになりたい」と思うのではなく、「何かになりたい」からそのための経験を探す、という逆説的な行動パターンがむしろ支配的になってくる。この倒錯が近代社会に生きる僕たち、特に若者に特有な「生きがたさ」をもたらしている、といってよい。たとえば、「リア充」になりたいと切実に願うがゆえに、充実していない自分のリアルの生活を否定してネットの世界に閉じこもる、といった行動パターンを考えてみればいいだろう。現代にはこういった類の倒錯で満ちあふれているのではないだろうか。
 僧侶の家に生まれながら家業になじめず、大学院や卒業後に勤めた企業も自らの居場所ではない、と感じた著者の安田峰俊は、このような生きがたさを体現したような青年である。本書の半分近い部分は中国−ミヤンマー国境にあるワ州への取材ルポの話が占めているが、そこには著者の生きがたさの告白のような記述が散りばめられている。

 これだけならばよくありがちな自分探しの辺境の旅であり、上記のような説明だけでお腹イッパイになる読者も多いことであろう。しかし、本書が単に自分探しの記録だけにとどまっていないのは、そこに自らの生きがたさを突き放して客観視する姿勢が見られるからである。その自分を客観視する作業の中で、著者が注目するのが洋の東西を問わず存在した「独裁者」である。しかし、なぜ、「独裁者」なのか。

 そもそも独裁、権力の集中は、常に絶対的な「悪」だというわけではない。ある状況においては、それはむしろ必要不可欠な条件だといってよい。その「ある場合」とは、いうまでもなく、「外敵」と闘う場合だ。本書で取り上げたのは革命家だったり、軍人だったりするのは偶然ではない。
 しかし、手強い敵との戦いに勝利した後には本来はもう独裁は必要がないはずだ。本書でとり上げられているような悪名高い独裁者は、いわば本来の戦いが終わった後も、あらたな「戦い」を演出し続け、独裁者の座に座り続けた人々といえるのではないか。それは、多くの場合新たな「外敵」が際限なく作り出されることにより、「外敵と闘う英雄」としてのイメージが自己模倣されるというケースが多い。では、なぜ、彼らは必要がないにもかかわらず独裁者としてふるまい続けたのか?

 そこで出てくる一つの仮説が、「彼ら」もまた現代に生きる安田青年と同じく、とにかく「何者か」になりたい人々であったのではないか、というものだ。例えば毛沢東は地主に苦しめられる中国農村の窮状に憤りを感じて革命活動に身を投じたのだ、というのが共産党の公式見解になっている。しかし、実際は毛沢東がかなり裕福な富農の出身であったことはよく知られた事実だ。果たしてリスクの高い革命運動に身を投じる必要性はあったのか?毛沢東に限らず、独裁者がほとんどの場合大きな社会変動を経験する後進国において「近代化」のただ中で生まれてきたのは偶然ではない。現代のモラトリアム青年と同じようにむしろ「何者かになりたい、あり続けたい」から倒すべき抑圧や敵を探す、という構図から無縁ではなかったのかも知れない。
 もちろん、もっぱらこのような権力者の個人的資質で20世紀の歴史変動を語ろうとするのは、やや単純か過ぎるという誹りを免れまい。ただ、それを承知の上で、自らの悶々とした心情や体験を一種の「鏡」として差し出すことで上記のような「問い」を映し出しているところに、本書の独特の「味」があるのだろう。

 さて、著者は、最後の章で3.11以降の日本社会における政治的な迷走、特に原発事故への対応のお粗末さに対する憤りを表明しながら、日本では独裁者が不在のようでも、「世間」が独裁的な役割を果たしており、その結果よりタチの悪い抑圧的な社会になっているのではないか、と述べている。だが、これはむしろ見方としては逆なのではないだろうか。これまで述べてきたような「読み」−独裁者とは「何者か」でありたいがために「敵」を自ら作り上げる存在である−が的を射たものであるなら、日本社会において安田のように「何者か」であろうとする人々にとって、「世間」こそが真っ先に倒すべき「敵」である、少なくとも安田自身はそう認識している、ということではないだろうか。

 だとすれば、「世間」は帝国主義勢力やユダヤ人資本やアメリカ帝国主義といった「敵」と比べてどのような違いがあり、闘うためにはどのような武器が必要なのか。また、その戦いに勝利した後に、新たな独裁が生じてしまう可能性はないのか、またあるとすればその可能性を回避するためにはどうすればよいのか。そういったことが、今後著者が、そして僕たちが追求していくべき課題として残されているのではないだろうか。