http://www.21ccs.jp/soso/chinateki/chinateki_31.htmlより。
平野義太郎は、同論文において、アジアにおける停滞が、アジア的農業社会に起因していること、そしてそのアジア的農業社会の基底が、アジア的専制主義と強く結びついていることを力説する。平野はマルクスも、そしてウィットフォーゲルの名をあげることなく、主にモンテスキューを論じることで、アジア的専制主義の物質的基礎が、灌漑排水の大土木事業にあること、すなわちアジア的生産様式にあることを論じている。
当前、このアジア的専制主義、そしてその物質的基礎、さらに今日風に言えば、アジア的専制主義を成立させ、それを維持せしめているエコ=システムの下にあったのは、インドや中国ばかりでなく、日本もまた、そうであった。上記の目次から知られるごとく、平野はアジア的農業社会のコンテキストにおいて、日本の農業社会を分析している。当然のごとく、日本農業の特質である、寄生地主制と圧倒的多数の零細農、農民生活の悲惨さや法的な無権利ぶりが、この物質的基礎から、このシステムから--より正確にいえば、その遺制から--出てくることになる。
さらに重要なのは、アジア的専制主義が、それぞれ、支那の官人的専制主義、支那の専制主義、支那印度専制主義、清朝の専制主義といった表現に、アジア的専制社会が清朝の専制国家に書き換えられていることである。しかし、専制や専制主義が全体として削除されたり、書き換えられているわけではない。それ以外にも、語句や文の削除や追加を含めて、重要な記述の改変がある。
では何故、アジア的専制主義という記述がまずかったのであろうか。アジア的専制主義という表現では、日本もアジアに属する以上、その影響下にあると受け取られることになる。だが、平野はすでに「大東亜共栄圏」の鼓吹者であった。日本は他のアジア諸国より、遙かに進んだ政治経済システムを持ち、それゆえ他の遅れた--したがって帝国主義列強の植民地や半植民地にならざるをえなかった--アジア諸国の模範もしくは目標たらねばならなかった。中国やインドのようなアジア的専制主義の遺制に苦しむ諸国とは違うのである。
そのように言うと、平野の転向とは何だったのかということになろう。さらに、平野にとってアジア的生産様式とは何だったのか、と問わざるをえないであろう。冒頭で述べたように、アジア的生産様式論は、野呂栄太郎や平野義太郎など講座派主流にとって、あくまでも、停滞性、後進性を特徴づけるための理論装置の一つであった、と筆者は考えている。ウィットフォーゲルのような、人類のマクロヒストリーのそれぞれの流れを説明する歴史理論ではなかったのである。極端な言い方をすれば、利用の対象にすぎなかったといえる。
「アジア的生産様式論」「専制国家論」を「停滞論」と切り離す試みとして。
※参考: http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080719