- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/05/29
- メディア: 単行本
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本作にはタイトルにも使われるオーウェルなどいくつもの文学からの断片が登場するし、ある意味では作品全体が『洪水はわが魂に及び』などの大江健三郎の小説を連想させなくもない。それらの作品を鍵に本作を読み解いていこうとするのはおそらく間違っていない。
しかし、この小説を読みながら僕が最も強くイメージしたのは、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』、特に以下のようなフレーズである。
「恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしかはいって行けない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である。」
「そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。何かしら絶望的なことが生じなければならない。」
「にせものの神は、苦しみを暴力に変える。真の神は、暴力を苦しみに変える。」
「恩寵」のイメージは『ねじまき鳥クロニクル』でもしばしば出てきたが、本作では一方で「空白」というイメージも繰り返しでてきており、重要なメタファーをなしている。村上の中で、この二つの概念の関係はどのようにとらえられているのか。以下はヴェイユの語彙を一部用いながらの僕なりの「読み」である。
重力の支配する世の中において、多くの人は「根」を持つことができず、魂の中になんらかの「空白」を抱えて生きざるを得ない。ただし、単なる「空白」は「真空」とは異なる。完全ある真空ではない「空白」には、一見「恩寵」に見えるけれども、実際は邪悪ななにかがすぐに入り込んでしまう。そのようなニセの「恩寵」は、訪れた人に必ず何らかの代償を要求する。真の「恩寵」は、自らの空白を占めている邪悪なものを完全に払いのけた、その瞬間のみに訪れるのだ。
このように考えると、村上のイスラエルにおけるあの「壁と卵」の演説も、ヴェイユの思想とのからみで理解することができるかもしれない(いうまでもなくヴェイユはユダヤ人の家庭に生まれているが、ユダヤ教の共同体を痛烈に批判している)。ただし、村上が直接にヴェイユの影響を受けたかどうか、ということはさほど重要ではない。
社会主義的な変革にも宗教的な共同体にも絶望しながらも、それでも何らかの救いを求めざるを得ない、そのような状況にあるという点において、ヴェイユの生きた第二次世界大戦前後のヨーロッパと、現在のパレスチナと、『1Q84』の小説世界は共通している。たぶん、重要なのはそのことなのだ。
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)
- 作者: シモーヌヴェイユ,Simone Weil,田辺保
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1995/12/01
- メディア: 文庫
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