- 作者: 岸政彦
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2015/05/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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著者からご恵投頂きました。ありがとうございます。
この本について稲葉振一郎さんが
永井均「解釈学・系譜学・考古学」の続きがついに。
と一行だけ書かれていますが、なるほどと思いました。・・といってもほとんどの人にはよく分らないかも知れません。たぶんこの点に関連していると思うので、このブログの過去のエントリから引用しておきます。
・・さて、ここまで考察したところで、われわれは村上に代わって次のような問いを立てることが可能であろう。「邪悪なもの」が近代化した「この世界」に必然的に宿るものであり、しかもわれわれの内部からしか生まれえないものであるとしたら、われわれはいかにしてそれを「祓う」ことが可能だろうか?
ここでもう一度、前々回のエントリに引用した永井均のテキスト「解釈学・系譜学・考古学」に戻ろう。永井は、恐らくはフーコーへの共感をこめて、解釈学でもなく、系譜学でもない「過去」への視線の向け方として、以下のような「考古学」的な視点というものを提起している。
他人たちがただ私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた、ただ現在のためにだけ存在しているのではない。過去は、本来、われわれがそこから何かを学ぶために存在したのではないはずだ。それは、現在との関係ぬきに、それ自体として、存在したはずではないか?過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史といった概念に頼らざるをえないが、ほんとうはそういう概念こそが、過去の過去性を殺しているのではないか?だから、記憶されない過去、歴史とならない過去が、考えられなければならない。このとき、考古学的な視点が必要となるのである。
ありがちな「解釈学」でも「系譜学」でもなく、このような「考古学」的な視点に基づいた「宗教」がありうるとしたら、それはどのような形をとるだろうか?実は、そのひとつの答えと思われるものを、われわれは過去の村上のテキストの中に見出すことができる。短編集『神の子供たちはみな踊る』に納められた「アイロンのある風景」という作品の中で、主人公である女性と一緒に流木を集めて焚火をするだけの、関西弁をしゃべる不思議なおじさん、「三宅さん」という人物がでてくる。加藤典洋は、『村上春樹イエローページ (Part2)』の中で、この「三宅さん」は「イエスの方舟」の「おっちゃん(千石イエス)」を連想させる、と述べている。
そのことはともかく、この作品における描写は、確かに「ただの人」が「ただの人」のまま救われる宗教というものがあるとすれば、こういうものではないか、というような深い印象を残すものであるのは確かだ。僕がこの作品に「考古学的」な宗教のあり方を感じる、というのも、そこには解釈学的な多くの宗教のように、人々の「過去」を意味づけて「現在」と結びつけることを通じて「救い」と称するものを提供するやり方とは対極のものが、そこで描かれていると感じるからである。
このように考えた時に、Book2までの『1Q84』に決定的に欠けていたものも、また明らかになってくるのではないだろうか。
端的に言ってしまえば、岸さんの本はそれこそ記憶とか歴史といった概念にたよらない、「記憶されない過去、歴史とならない過去」の語り方を示したものだ、ということになるかと思います。でもそのようにまとめてしまうことには大きな違和感も伴います。そのように整理してしまうこと自体がこの本で丹念に拾い上げられている「何事もなさ」、永井の表現を借りれば「過去の過去性」を殺すことにつながるように思うからです。その罠を避けるためには、実際にこの本を手にとって、「体験を共有する」しかないのでしょう。