梶ピエールのブログ

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Book3が出る前に『1Q84』を論じる(下)


 承前。ようやくおしまいです。ああすっきりした。

 さて、以前このブログで竹内好魯迅といったアジアの思想家を引き合いに出しながら、村上春樹もまた彼らが抱えていたような「近代の二重性」の問題を彼なりのやり方で追及してきたのではないか、という問題提起をしたことがあった。

 『1Q84』についてのこれまでの僕の読みがそれほど的外れでなければ、その村上の姿勢は現在に至るまで変わっていない。ただ、彼はそのような「近代の二重性」の問題を追及するのに、もはや、(異界・冥界的なものを含む)空間的な「外部」を想定すること―その行きつく先が『ねじまき鳥クロニクル』であった―を放棄したのだと思う。すでに述べたように、青豆は鼠や『世界の終り・・』の「影」の系譜に連なるキャラクターだが、彼女はもはや彼らのように「この世界」の外側に物理的に脱出することを望んだりはしない。その代わりに、いわば系譜学的思考により「この世界」の成り立ちの根拠を問うことで、その<外部>に脱出しようとするのである。

 しかし、『海辺のカフカ』の頃からその予兆はあったわけだが、このような空間的な「外部」の描写を封じることによって、村上の小説世界に一層の重苦しさ、閉塞感を抱え込むことになったのもまた事実である。内田樹が述べたように、村上の小説には「邪悪なもの」の存在がつきものであるが、この「邪悪なもの」を上記の僕の読みに従って定義しなおせば、次のようになる。
 近代化された「この世界」の中においても、どうしても近代的な枠組みではとらえることのできない、いわば近代の「外部」としか言いようのない、わけのわからないものがどうしても残ってしまう。そのわけのわからないものを、われわれが十分に(これも内田の言い方に倣えば)「祓う鎮める」ことができないとき、それは「邪悪なもの」として「この世界」に立ち現われてくるのだ、と。

 つまり、「邪悪なもの」は近代化した社会が必然的に抱え込んでしまうものではあるが、それが端的に「この世界」の外部からやってくるものである限り、それはあくまでも「鎮める」あるいは「祓う」ことが可能なものである。というか、村上の小説自体が、都市生活の中に潜む「邪悪なもの」への「お祓い」を提供するものとしてこれまで消費されてきた、という面がある。しかし、そのような「外部」を想定することが封じられた時、なおかつ「邪悪なもの」の跋扈がやまないとしたら、それはとりもなおさずわれわれの内部から生まれてきたものだ、と考えざるをえないのではないだろうか。

 例えば、ふかえりの父も、もともとは青豆と同じように、「この世界」の成り立ちの根拠を問うことで、その<外部>に脱出しようとしたのではないだろうか。このことは、青豆自身も何らかの自衛的手段―その究極のものが自殺である―を取らなければ、自らがふかえりの父とその教団のような「邪悪なもの」に転化しないという保証はない、ということを意味している。そういったいわば「邪悪なものの偏在化」が正面切って描かれているところに、『1Q84』の独特の重苦しさ、閉塞感を与えているように思う。


 ・・さて、ここまで考察したところで、われわれは村上に代わって次のような問いを立てることが可能であろう。「邪悪なもの」が近代化した「この世界」に必然的に宿るものであり、しかもわれわれの内部からしか生まれえないものであるとしたら、われわれはいかにしてそれを「祓う」ことが可能だろうか?

 ここでもう一度、前々回のエントリに引用した永井均のテキスト「解釈学・系譜学・考古学」に戻ろう。永井は、恐らくはフーコーへの共感をこめて、解釈学でもなく、系譜学でもない「過去」への視線の向け方として、以下のような「考古学」的な視点というものを提起している。

 他人たちがただ私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた、ただ現在のためにだけ存在しているのではない。過去は、本来、われわれがそこから何かを学ぶために存在したのではないはずだ。それは、現在との関係ぬきに、それ自体として、存在したはずではないか?過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史といった概念に頼らざるをえないが、ほんとうはそういう概念こそが、過去の過去性を殺しているのではないか?だから、記憶されない過去、歴史とならない過去が、考えられなければならない。このとき、考古学的な視点が必要となるのである。

 ありがちな「解釈学」でも「系譜学」でもなく、このような「考古学」的な視点に基づいた「宗教」がありうるとしたら、それはどのような形をとるだろうか?
 
 実は、そのひとつの答えと思われるものを、われわれは過去の村上のテキストの中に見出すことができる。短編集『神の子供たちはみな踊る』に納められた「アイロンのある風景」という作品の中で、主人公である女性と一緒に流木を集めて焚火をするだけの、関西弁をしゃべる不思議なおじさん、「三宅さん」という人物がでてくる。加藤典洋は、『村上春樹イエローページ (Part2)』の中で、この「三宅さん」は「イエスの方舟」の「おっちゃん(千石イエス)」を連想させる、と述べている。

 そのことはともかく、この作品における描写は、確かに「ただの人」が「ただの人」のまま救われる宗教というものがあるとすれば、こういうものではないか、というような深い印象を残すものであるのは確かだ。僕がこの作品に「考古学的」な宗教のあり方を感じる、というのも、そこには解釈学的な多くの宗教のように、人々の「過去」を意味づけて「現在」と結びつけることを通じて「救い」と称するものを提供するやり方とは対極のものが、そこで描かれていると感じるからである。

 このように考えた時に、Book2までの『1Q84』に決定的に欠けていたものも、また明らかになってくるのではないだろうか。

 上述の『村上春樹イエローページ』からは多くの示唆を受けたが、そこで編者たちは、1995年の地下鉄サリン事件の被害者を取材した『アンダーグラウンド』以降、村上は「ふつうの人」「ただの人」が住む世界を少しずつ小説世界の中に取り入れ、それを従来の村上ワールドの中でおなじみだった「超越的なもの」「この世ならぬもの」(僕の言い方に従えば「この世界」の外部にあるもの)と対峙される、肯定的な意味合いをもつ存在として描く、という試みを一貫して行ってきたことを指摘している。
 そしてそのことは、例えば作品中に登場する食事(それまで村上作品に出てこなかったラーメン屋が登場するなど)や、登場人物の職業・服装といったディテールにも現れているのだという。このような「ただの人」についての描写が、上記のような「三宅さん」が体現する「救い」のイメージの提示にとって重要な意味を持つことは言うまでもない。

 『1Q84』をBook2まで読んだ段階で気づくことは、そういった「ただの人」の生活を感じさせるような描写がほとんどでてこず、登場人物の背景も、宗教団体とかベストセラーを出す出版社とか、あるいは秘密の暗殺集団とかSMにはまる婦人警官とか、端的に言えばどこか浮世離れした、「ただの人」とは程遠い人々をイメージさせるものばかりだ、ということである。

 例えば、Book2の終りの方で、主人公の一人天悟は、最終的に「この世界(=1Q84年の世界)」で生きていくことを肯定するが、そこで重要な役割を果たすのが、10歳の時の青豆と天悟がお互いに経験したような「かけがえのない経験」の記憶である。しかし、このような天悟の決意は、まさしく「記憶とか歴史とかいった概念によって過去を現在と結びつける」ものであり、永井均の言うような考古学的な「過去の救い方」とは対極にあるものである。そこでは、そういった「恋愛ドラマのような超越的な経験」を持っておらず、それゆえに自分自身をからっぽだと感じてしまう「ただの人」はいったいどうしたら救われるのか、という、『神の子どもたちはみな踊る』などで提起されていた問いが大きく後退している、と言わざるをえない。
 『1Q84』がBook2まで出た段階で、物語としては一応きれいに終わっている印象をうけながらも、その結末に多くの読者が不満を抱いたのは、おそらく上記のようなことが最大の理由ではないだろうか。

 だとすれば、間もなく発売されるBook3がどういう方向性を目指して書かれているのか、ある程度の予測は可能なはずである。少なくとも僕はそれを、Book2までには登場しなかった「ただの人」が数多く登場し、彼(女)らが織りなす世界をBook2で登場したような超越的な生を生きる人々の世界とどのように接合し、その上で前者を肯定的に描くことができているかどうか、あるいはそこで解釈学的でも系譜学的でもない、考古学的な「救い」のイメージが印象的に描かれるのかどうか、という点に注目しながら読んでいくだろう。心の片隅で、「あまりこちらの「読み」通りの展開になってもらっても面白くないな」とどこかで思いながら。