梶ピエールのブログ

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Book3が出る前に『1Q84』を論じる(上)

今年初めのエントリ「2010年に『1Q84』を読む」の続きです。まあ、愚人節にふさわしいホラ話ということで。

 恐らくすでに誰かが指摘していることだろうが、『1Q84』の青豆は、村上の初期作品の「鼠」の正当な後継者である。これも恐らく語りつくされたことだろうが、「鼠」と「僕」の二人の立場の違いは、近代化と高度消費文明によって生じた「醒めることの禁じられた夢」ともいうべき、一見心地よいこの世界に対して我々が抱く、両義的な態度を体現している。単純化すれば、「鼠」は世界を変えようと絶望的な抵抗を試みる立場を、「僕」は世界を最終的に受け入れる立場をそれぞれ代表している。

 従来の村上の小説では、この二つの立場の違いを際立たせるために、「世界」のこちら側とあちら側、というように、いわば空間的な線引きをし、つねに「僕」にこちら側を代表させる、という手法をとっていた。そのような手法が行き着くところまでいったのが、『ねじまき鳥クロニクル』である、と考えられる。さらに、綿谷ノボルのように、どうみても「こちら側」の世界のエリートでありながら、実際には「あちら側」の世界につながっているような両義的なキャラクターこそが『ねじまき鳥』までの村上作品における典型的な「邪悪なもの」であった。

 『1Q84』でも依然として「こちら側」と「あちら側」の間の線引きは重要な役割を果たしている。しかし、言うまでもなくそれはもはや空間的な意味を持っていない。代わって登場してくるのは、「世界」についての認識の「外部」に出ることは可能か、という問題である。

 前回のエントリで考察したように、『1Q84』の世界において立ち現れる「邪悪なもの」とは、ふかえりの父に代表されるように、「二重思考」を操るもの、すなわち、「系譜学的認識の解釈学化」を行うものにほかならない。それは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「やみくろ」のように、最初からこの世界の「外部」に存在することが自明なものではなければ、綿谷ノボルのように「こちら側」にいながら「あちら側」と通じている存在でもない。いわばそれは、記憶(=世界についての認識)が改変されつつあるなかで、その認識の<外部>に出ようとするもの、あるいは「<外部>にあることを自称するもの」である。

 記憶(=世界についての認識)が改変されつつあるなかで、その認識の<外部>に出る、とはどういうことか。もし本当に、この世界に対する記憶が改変されたのならば、「記憶が変わった」という記憶も残っていないはずだ。「記憶が変わった」事を認識しているものが存在するとしたら、それは「系譜学的認識の解釈学化」によって信者を獲得する僧侶のような存在か、『1984年』のオブライエンのように、二重思考を行う支配者でしかない。

 このような「二重思考」に伴う胡散臭さは、シュミット=アガンベンが「例外状態」と呼んだ状況の胡散臭さに似ているだろう。「例外状態」は、完全な無法状態ではなく、あくまでも法的秩序の延長線上にある。法的秩序を前提にしているからこそ、それが「例外」といえるのだから。だとすれば、「例外状態」においては、その状態において決断するもの(=主権者)に、常に一種の二重思考―法的秩序を前提にしつつ、あたかも法が存在しないかのように思考する―を要求することになる。
 アガンベンは、収容所や難民の存在を中心にこの問題を考察しているが、例えば入植者たちが植民地に対してふるう暴力も、この枠組みで考えることが可能であろう。入植者にとって前近代的な状態にある植民地は、しばしば「それ自体固有な歴史を持っている(=法的秩序の外部にある)存在」とは認識されず、「いまだ近代にいたらない状態にある(=法的秩序の例外にある)社会」としか見なされない。だからこそ、植民地で入植者はしばしば「法を措定する者」として立ち現れるが、自らはその法に服さない、あるいは法を措定する過程で自らふるった暴力を法の適応外とするのである。

 このような状況は、「以前の世界があった(1984年だった)」ことを前提して初めて「世界が変わった(1Q84年になった) 」という認識が可能になるのと似ていよう。だから、例外状態において決定するものが、法によって制限されることのない力を振るうことができるように、「世界が変わった」事を認識できるものも、制限されることのない力を振るうことができる。いうまでもなく、『1Q84』の世界では、ふかえりの父とその教団がなす「悪」と「暴力」がそれを象徴している(続く)。