梶ピエールのブログ

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開発主義を超えて―外部経済と内部経済―(後)

 (承前村上泰亮は、遺著となった『反古典の政治経済学』で全面的に展開される「費用逓減の経済学」の中で、産業化のキャッチアップ局面にある経済では、十分な資本調達能力を持つ企業が最新技術を導入しつつ生産規模を拡大することにより、一企業内で収穫逓増(費用逓減)を実現することが一般的である、と論じた。そして、そのような状況では、市場に常に需要制約に直面しているために、企業間で価格切り下げによるシェア拡大競争が生じ、その結果独占が生じるか、あるいは「過当競争」による破滅的な企業淘汰が生じるという、「費用逓減局面における競争の不安定性」を強調した。

 村上は、このような企業間競争が不安定な局面では、政府による価格安定政策をベースとした「仕切られた競争」が必要であるとして、政府による産業政策および非新古典派的な分配政策に理論的根拠を与えた。さらには、よく知られているように、そのような政府の市場介入に整合的な政治体制のあり方を「開発主義」として一つの政治経済学的な体系にまとめあげたのである。

 さて、前回のエントリで紹介した斎藤修の議論と対照させれば、この村上の「費用逓減の経済学」が、同じ費用逓減(収穫逓増)といってもマーシャルの指摘した「外部経済」よりも、むしろ「内部経済」を重視したものであることは、明らかであろう。このような村上による「内部経済」の重視は、恐らく彼が活躍したのが間接金融の比率が現在よりもはるかに高く、金融資本と結びついた大企業による独占・寡占化が問題とされていた、戦後の高度成長期であった、という時代的な背景と無縁ではなかっただろう。

 しかし、もし費用逓減による経済成長が、主として外部経済の下で生じるならば、たとえ政府がそこに介入しなくても、必ずしもいわゆる「過当競争」のような状況は生じないはずだ。産業内における企業全てが利益を享受できる外部経済の下では、激しい企業の淘汰や独占化が生じる必然性はないからである。すでに述べたように、外部経済の存在は新古典派的な均衡とは異る状況を生み出し、なんらかの自己組織的な市場秩序をもたらすだろうが、村上が内部経済の存在を想定して主張したように、強力な公権力による、ある一定方向に向けた調整がなければ、市場に安定的な秩序が生まれない、ということはないのである。そのことは、斎藤が強調するような、徳川日本における「分業」が外部経済をもたらし、そのことが持続的な人口成長と経済成長をもたらすというメカニズム―もう一つの「スミス的成長」―、という事例を想定すれば十分であろう。

 それでは、産業において費用逓減の状況が生じており、なおかつ政府による競争抑制政策が行われていないにも関わらず、市場競争に何らかの秩序が保たれている状況ーこれを仮に「マーシャル的競争」と呼んでおこう―の現代における具体的な例として、どのようなものをイメージすればよいであろうか?

 実は、丸川知雄が『現代中国の産業』で描いたような、激しい競争を繰り広げながらも拡大を続ける中国製造業企業の状況こそ、このような「マーシャル的競争」の文脈で理解できるのではないだろうか。よく指摘されるように、中国の多くの製造業企業は、ほとんど科学開発費に費用をかけていないし、技術的にも模倣が多く、いわゆる企業内部における(生産関数のフロンティの上昇としての)技術進歩は生じていない。これだけみるとクルーグマンが「東アジアの幻」で論じたとおりに思えるが、実際のマクロで見たTFPはかなりの上昇が見られるのも事実である。ここに、中国製造業の生産性の向上は内部の技術進歩ではなく、むしろマーシャル的な外部経済によって生じているのではないか、という推論が成り立つだろう。

 主に丸川の研究に依拠して言うなら、中国の製造業のダイナミズムは、中間財部門が細かく分化し、そこに多数の企業が参入してくる過程−丸川の用語を用いれば「垂直分裂」−を繰り返すことによって、中間財の調達コストが劇的に低下し、それによって産業全体で費用を劇的に下げる、というプロセスにこそ求められる。一見すると、あまりに部品企業間の価格競争が激しいので、そこでは破滅的な企業淘汰、あるいは独占化が生じてしまう、ようにみえるかもしれない。実際、そういった中間財を生産する零細な企業の生産性や利潤率は恐ろしく低い、といってよい。しかし、それがいわゆる「過当競争」にならないのは、産業全体で見ればそのような競争によってメリットを享受する部門が存在し、その部分では常に正の利潤が常に確保されるような仕組みができているからである。これは、収穫逓増が個々の企業レベルでは働かないが、産業全体では働く、というマーシャルの描いた世界に近いものではないのだろうか?

 実際のところ、中国政府はこれまで特定産業の再編や企業統合の推進という形で産業に介入するということはたびたび行っているが、村上が想定したように特定産業における参入規制や価格調整などを通じて「仕切られた競争」を実現する、ということをほとんどやっていないか、あるいはやろうとして実現してはいない。そもそも村上の開発主議論が想定していたころと比べ、製造業の生産構造が大きく変わってしまったので、これはある意味では当然である。端的に言うと、サプライチェーンのグローバルな展開や中間財部門の互換性が進むことが製造業のコスト低下の源泉になる、という現在の状況は、村上の内部経済重視の議論の枠組みでは十分に捉えられないのである。

 最後に大風呂敷を広げると、ここに、中国のような外部経済による費用逓減が成立する経済を一つのモデルとして、村上が論じたような「開発体制国家」とは異なっった政治経済体制のモデルを組み立てる可能性(もしくは必要性)があるのではないか、という気がしている。もちろん、そのための理論化の作業はまだまだこれからの課題だが。

反古典の政治経済学 上 進歩史観の黄昏

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反古典の政治経済学 下 二十一世紀への序説

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