烏坎村の自治の動きを「公共性」の観点から理解するのに有用だと思われるのが、、著名な中国思想史研究者である故・溝口雄三氏が『中国の公と私』などの著作の中で強調していた、「つながりの公」という概念である。以下の表は、同書の中に示された(同著57−58ページ)、清末革命家の思想家の「公」「私」概念を対比させたものだが、これを上記のような烏坎村の事例を頭に入れながら改めて眺めると、実に味わい深いのではないだろうか。
※訂正: 上の表の「公」の「君・主」の項目の一行目、「民主・・私」とあるのは「民主・・公」の誤りです。
この一連の対比からは、たとえ政府や国家、君主であっても、それが「一部の少数者」の利害を代表している場合は、「私」的な存在として批判・打倒の対象になるのに対し、その対立概念であるところの「公」は、あくまでも、「多数者」の利益を代表するものとしてイメージされていることがわかる。このような「公」「私」の対比が、「反対独裁」「打倒貪官」を叫んで「民主的な選挙」を求める烏坎村村民のスローガンと共鳴しあうものであることは言うまでもないだろう。
溝口氏は、このような「少数者の専制」=「私」に対して、「多数者の利益」=公を対比させる概念が、「生民(=むき出しの生を生きる人々)」の自然権が「均(=偏りがなく、充足している状態)」であることへの志向として、伝統中国社会に広く内在していたことを指摘している。そして、「おおやけ=朝廷」という、「領域性」に強く規定された日本の「公」概念に対し、中国のそれを「つながりの公」と名付け、成員間の「平分」を強く指向し、排他的な独占を「姦邪」として退ける、強い道義性を持つものとして特徴付けるのである。
このように中国の公・私は、共同体的なそれから、君・国・官と臣・家・民の間の政治的なそれへと整備されていく過程で、おそらく道家の思想を媒介に、天の無私・不偏を、政治の原理としてうけいれ、公を「平分」、私を「姦邪」とする、すなわち公平、公正に対する偏頗、姦邪という、道義的な背反・対立をふくみこむに至った、と考えられる(同書47-48ページ)。
このような伝統的な中国社会における「(つながりの)公」概念は、本来「少数者の専制」への対抗として構想されたルソーの「一般意志」とかなりの親和性を持っているように思われる(実際、溝口氏の論考の中にもたびたび「一般意志」という表現が用いられている)。このことは、烏坎村の事例を、単に「中国共産党の掌握範囲のできごと」と過小評価すべきではないことを示していよう。烏坎村の村民たちが掲げたスローガンと、上表に示された清末革命派知識人の清朝政府を「私」として指弾する論調との類似性は、党中央が社会全体の「公」(天下の「公」)を体現する存在として、今のところは信頼が形成されているとしても、一旦その信頼が崩れれば、それが「私」として指弾され、大きな社会変動が起きる可能性が大いにあり得ることを物語っているからだ。その意味では、烏坎村の村民達の主張はまぎれもなく「民主」的なものである。
汪洋のような中央政界入りがささやかれる有力な党エリートが、この問題に介入せざるを得なかったのも、事件が広く世界的な関心を集めたというだけではなく、村民が掲げたスローガンが中国的な「公」概念に沿ったものであり、したがって党の支配体制をゆるがす潜在的な威力を持つものである、ということを正確に認識していたからであろう。
一方で、このような中国的な「公」の概念の限界を認識しておくことも忘れてはならないだろう。その「限界」とは、このような「つながりの公」概念の道義的な性格が、あくまでも「生民」という名でひとくくりにされる、「多数者」の生存権や要求に基づいたものであり、そこには社会の「少数者」の尊厳を評価し、支える、という契機を著しく欠いている、ということのなかに求められる。
昨今、チベットや新疆において民族間の対立問題が深刻さを増している背景にも、このように「少数者の正義」を社会の中に正統に位置づけることができない、ということが大きな影を落としていることは間違いない。ここでいう「少数者」とは、必ずしも生存権を脅かされた経済的な弱者、のことではなく、究極には、ダライ・ラマやラビア・カーディルのような人物も含まれている。これらの民族主義的な指導者の主張は、「多数者の正義」には決して包括されないものであり、その故に現代中国ではむしろ「姦邪」に近いものとして排除される宿命にある、と言えば僕の言わんとすることがわかってもらえるだろうか。
伝統中国において、「公」権力がそのような「少数者の正義」の問題を意識の外に置いていたことには、それなりの理由がある。それは、ベストセラーとなった與那覇潤氏の『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』で再三強調されていたように、中国が「経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみ」を早い段階で作り上げていたからにほかならない。そこでは、「少数者」は「公」権力による救済は受けられない代わり、いわば「帝国の秩序」の枠外へと放擲されるという形での「自由」を手にすることができたからである。
やはり中国思想史を専門とする小島毅氏による、以下のような宋代社会に関する記述が、そのような伝統中国における「少数者」の扱いかたを、よく示していよう。
皇帝のもと、帝国の秩序は一元的に構築されている。議会や社団が皇帝の恣意を掣肘するということはない。あらゆる法は、究極的には皇帝の意志として発布・施行される。
その帝国の秩序を大きく逸脱しない範囲で、人々がどのようにふるまおうとそれは当人の「自由」である。ただし、それは自分が聖人から遠く離れた存在、未完成の人格者であることを対人的に表明してしまうという代償のうえに立った「自由」にすぎない。どうふるまっても法的・制度的に不利益をこうむらないという意味での「自由」ではないのだ(溝口・池田・小島『中国思想史』106ページ)。
また中国が近代国家となってから、特に中華人民共和国成立以降は、そのような「少数者」の正義や尊厳に関する問題は、むしろ常に「多数者」の権利の問題、具体的には生存権の保証といった、まさしく「生民」が等しく抱える問題に読み替えられて処理されることになる。具体的には、少数民族居住地域への大規模な経済援助・財政支出がその主要な手段として用いられることになる。
しかしながら、そのような「秩序外への追放&自力救済」および「多数者の抱える問題への読みかえ」、という二つの手段を通じた、「少数者の正義」に関する中国的な救済のありかたは、国民国家としての中華人民共和国の論理の前に無効化されており、あるいはすでに限界に来ているように思われる。四川省を中心に相次いでいるチベット僧侶の焼身自殺は、そのことを端的に示す出来事なのではないだろうか。
「少数者の正義」の問題が「多数者」のそれに転嫁されることなく、あくまでも「少数者」の問題として解決される、少なくともそのための活動が許されるという道筋が中国社会の中に形成されていれば、少なくともこれまでに繰り返されてきたような暴力的な衝突や、焼身自殺による抗議といった悲惨な現実は避けられたはずである。現代中国の少数民族問題の深刻さと解決の困難さは、まさにこの点に起因するのであり、たとえば柄谷行人氏が『atプラス11』の特集で書いているように、アファーマティブ・アクションによる「逆差別」の問題、あるいは小島正憲氏が拙著への批評としてあげたような「少数民族の自重」の問題には決して解消されない、というのが僕の考えである。
いずれにせよ、一部の欧米のメディアで顕著にみられるように、中国の「民主化」を議論する際に、表面上の現象のみに目をとらわれ、中国社会の歴史的、伝統的文脈を無視した議論は不毛であり、事実認識の大きな誤りをもたらしかねない。むしろ「民主」「人権」「公共性」といった概念に関して共通の理解を形成することの困難性を認識しつつ、シニシズムに陥らずその必要性を唱え続ける「作法」が重要なのではないだろうか。