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 電子マガジン「αシノドス」vol.239で「学び直しの5冊<中国>」として、今中国社会を理解するのに有用な5冊の書籍を紹介しました。寄稿した文章は以下の通りです。

 現代中国について論じることは難しい。専門家であっても真っ向から見解が分かれることはざらにある。特に日本社会では、現代中国についての見解の対立はその論者の「価値観」、もっとあからさまないい方をすれば政治的な立ち位置を反映したものになりがちだ。このような状況の中で中国を「学び直そう」とするなら、中国のできるだけ多様な側面、あるいは同じ現象でもそれについてのできるだけ多様な見解に触れることで、特定の価値観から生じるバイアスを相対化する姿勢が重要になってくるだろう。

 ここ1,2年で若干風向きが変わってきたとはいえ、書店では相変わらず現代中国について厳しい見方を示す書物の方が目立つ。中でも出色なのが、現代中国政治を人民解放軍共産党、そして中国という国家との関係に焦点を当て、軍事面からわかりやすく捉えた阿南友亮著『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(新潮選書、2017年)だ。

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)

 よく知られているように人民解放軍は国軍ではなく党軍、つまり中国共産党の軍隊である。この点に関し同書は、共産党一党独裁下の中国では国家と民間社会の間に深刻な分裂が生じており、民間の不満を暴力によって押さえつけ、党の支配を盤石にするためにも人民解放軍の「党の軍隊」としての性格を維持せざるを得ない、という見方を示している。

 これまで、人民解放軍の国軍化を求めた政治家がいなかったわけではない。毛沢東時代には彭徳懐が、そして改革開放期には胡耀邦らが解放軍から政治・行政的機能をそぎ落とし、軍事に特化したプロフェッショナルな「国軍」に近い組織にする改革を行おうとした。しかし、彭や胡はいずれも政争に敗れて失脚し、1989年の天安門事件以降は解放軍を共産党や国政と切り離すというシナリオは完全に封印されてしまう。「いざというときには中国の民衆にも銃口を向けるというこの軍隊の性格を保持・補強せねばならないという考えが再び共産党を支配するように(197ページ)」なった、という著者の指摘は重い。

 しかし、同書の言うように「民間社会」は本当に押さえつけられてばかりなのか。言論や政治活動についてみれば確かにそうかもしれない。しかし、ひとたび経済に目を向けてみると、強権的な手法を強めつつある習近平政権の中で、民間の起業家はむしろのびのびとその活躍の場を広げつつある。

 最近は配車アプリやシェア自転車などシェアリングエコノミーの急速な広がり、スマホによる電子決済の普及など、IT産業を中心とした中国におけるイノベーションの動きが日本でも盛んに紹介されている。

 中でも注目を集めているのが、独創的なアイディアを持った個人起業家(メイカー)の活躍だ。高須正和著『メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない。』(インプレスR&D、2016年)は、そういったメイカー達の企業をサポートする「エコシステム」としての広東省深圳市の役割を日本で最初に紹介した記念碑的著作である。

 深圳には、プリント基板の実装や試作品の製造を小ロットで請け負う中小企業、創業資金を出資するベンチャーキャピタル、あるいはメイカーに開発のための場所を提供し、情報共有や、資金提供者とのマッチングをサポートする「メイカー・スペース」などが、半径二時間で行ける圏内に集積している。このようなメイカ―たちのアイディアを形にするためのエコシステムが形成されることにより、深圳は中国国内だけでなく、世界中のメイカーが集まる「メッカ」と化しつつある。

 同書の解説で評論家の山形浩生は「イノベーションの相当部分は既存のものの組み合わせであり、また多くの人々による小さな改良の積み重ね」であり、「そうした組み合わせが生じるためには、まず情報の自由な流通が必要」だと述べている。

 言論の自由が抑圧されている中国でそのような「情報の自由な流通」が実現されていた、というのはちょっと違和感があるかもしれない。しかし、深圳には「情報の流通」において重要な二つの点を兼ね備えていた。一つは、経済特区として早くから外国企業の進出が集中していたこと。そしてもう一つは、地域の産業基盤として無数の中小企業がお互いに競争しつつ、時に協力し合う仕組みが整っていたことである。

 このようなオープンで競争的な環境を背景に、深圳の「エコシステム」は、ハードウェアのスタートアップの初期費用を劇的に引き下げた。斬新なアイディアはあってもモノづくりの経験に乏しい起業家が、このようなエコシステムを利用して成功するパターンは、今後ますます増えていくだろう。

 そういった創意工夫にあふれる民間の起業家・経営者たちの活躍を生き生きと描き出したのが、高口康太『現代中国経営者列伝』(星海新書、2017年)である。

現代中国経営者列伝 (星海社新書)

現代中国経営者列伝 (星海社新書)

 同書を貫くのは、個性あふれる経営者に焦点を当てることで、「危なっかしいがエネルギーにあふれる」中国経済の歩みを描こうとする姿勢だ。品質の悪い冷蔵庫を社員に叩き壊させるという荒療治でたるみ切った工場を立て直し、中国一の家電メーカーハイアールに育て上げた張瑞敏。信用取引が普及しない社会に独自の決済システムを提供し、取引の「信頼性」というハードルを乗り越えたアリババの創始者馬雲。B2Bビジネスの巨人にして、国際特許の出願数No.1を誇る華為技術を裸一貫で立ち上げた任正非など、個性的な経営者たちの印象的なプロフィールが激動する中国経済の歩みと共に軽快なスピードで綴られる。

 同書の冒頭で高口は述べている。「中国経済の高成長については日本のメディアもよく取り上げているが、ある重要な点を取り逃しているのではないか。それは「成長は楽しい」という事実だ」。現在の中国社会には様々な問題がある。しかしそこに住む人々は不思議に明るく、希望を失っていない。本書に描かれた、自らの才覚で豊かになり社会を変えることを楽しむ経営者たちの価値観は、私たちが長い間忘れてきた、しかしかつて確かに共有していたものでもあるはずだ。

 さて、軍拡と言論統制を続けるこわもての国家や党と、活発なイノベーションと創意工夫にあふれた民間経済。一般的な日本人の常識からすれば、この二つの存在は相いれないはずである。では、どちらが正しい中国の姿で、どちらが間違った中国像なのか。必ずしもそのように考える必要はない。この二つの側面が矛盾なく共存するのが、足立啓二著『専制国家史論』(ちくま学芸文庫、2017年)が描き出す、中国の伝統的な国家と社会のあり方にほかならないからだ。

 足立によれば、領域内の私的土地所有に基づく社会勢力が、国家権力と一定の緊張関係を保ちながら公共サービスの提供などの「自治」を行ってきたのが西洋・日本の前近代における「封建社会」の基本的な性質である。それに対し、中国は歴史の早い段階で国家が唯一の権力基盤ならびに公共サービスの担い手としてそびえたち、それに対抗するような団体や権力が社会の中に形成されない「専制国家」を作り上げてきた。

 このような専制国家における市場秩序は、政府による参入規制もギルド・業界団体による新規参入者の排除も実質的に存在しない、極めて自由開放的かつ競争的な性格を持っていた。その反面、「法の支配」に代表されるフォーマルな制度によって市場の運行が支えられているわけではないため、商取引の推敲は組織化されない二者間関係によって担保されざるを得なかった。また、零細な商人や仲介業者の相次ぐ参入により、市場経済は絶えず一種の過当競争状態にあった。このような「権力の集中」と「自由競争的な市場」との併存こそが足立の説く専制国家の特徴である。

 このように中国社会の本質を「専制国家」として理解することは、必ずしも「停滞論」の立場をとることを意味しない。それは、中国が今なお「党」に権力を集中させた専制国家としての性質を保持しながら、自由闊達な経営者や起業家たちを排出している現状に照らしてみれば明らかだろう。

 足立の研究を始めとして、日本社会とは異質な「中国の論理」を理解する上で、日本の中国史研究の成果から学ぶべき点は多い。ここでは今年刊行されたばかりの寺田浩明著『中国法制史』(東京大学出版会、2018年)を挙げておこう。同書は、明清期契約文書の解読を通じた伝統中国における法制度の分析をベースに、西洋と中国における伝統的な「法」に対する考え方の違いを明快に描き出した、中国社会を理解する上でも必読の書である。

中国法制史

中国法制史

 中国における伝統的な法概念の下では、個別の案件における情理にかなった公平な「裁き」は、個別の事情や社会情勢によって異なるべきであり、それらの事情を考慮せず、機械的にルール=国法を適用することはむしろ忌避された。そこでは、世の中の道理をわきまえ、「みんなの利益」を実現するすべを知っている公平有徳な大人(たいじん)が、天の理と人の情にかない、万人が納得するようなロジック(公論)を導き出すことが重視されたのである。

 これは、個別案件とは独立した客観的な「ルール」が存在しており、裁判を通じてその客観的な「ルール」が個別事案に適応され、強制的に実現されていく、という西洋近代における「法」の概念とは著しい対照をなす。

 近代国家が成立するにつれて、もちろん中国社会でも近代法が導入されるが、その体系が社会全体を覆い、万人を納得させるロジックになっているかどうかは疑わしい。現在でも、伝統中国における「公論としての法」の名残は社会のさまざまな局面で垣間見られる。しばしば指導者の意向を反映した政治キャンペーンが法律よりも効力を発揮したり、「公正」さを求める民衆の直接行動が法廷への提訴ではなく、上級官庁・中央官庁への陳情(信訪)という形をとったりすることはその一例である。

 前述のような現代における民間経済の活力も、「ルールとしての法」に対する軽視、という中国社会の伝統なあり方に支えられている、という見方が可能かもしれない。これまでにも、国家によって設計された法制度や規制のいわば「裏をかく」ように民間企業がふるまう結果、当初国家が意図したものとはかなり異なったシステムが成立し、それが経済のダイナミズムを支える、という現象が中国では広く見られたからだ。

 今後、中国とどう付き合っていくのか。この難問を考える上ではまず何より、かの国が「法」や「国家」「権力」といった社会の根幹をなす概念のとらえ方が、日本に住む私たちがなじんだものとは大きく異なっている、一筋縄ではいかない「他者」であるということを、深く認識しておく必要があるだろう。