梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

クルーグマンvs. 中国人エコノミスト(+オレ)

 
 前回のエントリの続きです。

 クルーグマン人民元切り上げ論について、中国人エコノミストの反発が相次いでいる。

 例えば『財新網』に掲載された黄益平の記事では、Menzie Chinnによる実証研究などにも言及しながら、確かに以前は購買力平価を基準にして、元は40%ほど過小評価されているというような試算もあったが、数年前ドルベースの購買力平価そのものが40%過大に評価されていることが分かり、修正されたことを考えれば、現在の元が対ドル大幅に過小評価されているという根拠はない、という指摘がなされている。

 それはともかく、上の米中の実質金利のグラフ(再掲、無断転載を禁ず)からは、いろいろなことを読み取ることができる。そもそもクルーグマンの言うように元の過小評価がそれほど問題なのであれば、元がドルにペッグしている限りアメリカ経済には強固なデフレ圧力がかかっているはずである。しかし、グラフを見ればここ数ヶ月間では元のペッグ制が続いている中で、米中両国の物価は上昇に転じている(実質金利が低下している)。これはもちろん、アメリカの物価動向が中国に影響を与えているのであって、その逆ではない。このことは、中国経済がむしろ「開放小国」経済に近いことを示している。中国が開放小国である限り、その為替レートの水準が大国であるアメリカ経済にそれほど大きな影響を与えるとは考えにくい。

 もう一つ、上の図で気になるのは、2006年の夏から2008年の夏にかけて、元が対ドルレートで緩やかに増価していた時期に、米中の間で実質金利の乖離が生じているという点である。このことをどう解釈するか、以下、ケイブス=フランケル=ジョーンズによるテキスト、『国際経済学入門II 国際マクロ経済学編』、第27章の記述をもとにして整理してみよう。

新古典派的な価格伸縮性の仮定の下で、購買力平価仮説(PPP)が成立しているとき、
S=P/P^*   
が成り立つ。(Sは長期名目為替レート、pは中国の物価、p*はアメリカの物価、以下同じ)

ところで、中国とアメリカの貨幣需要関数を以下のように定義する。

M/P=L(i,Y)
M^*/P^* =L^*(i^*,Y^*)  (iは名目金利、YはGDP、Mは貨幣供給、Lは貨幣需要

これらを変形してPPPの式に代入すると、

S=\frac{M/L(i,Y)}{M^*/L^*(i^*,Y^*)}=\frac{M/M^* }{L(i,Y)/L^*(i^*,Y^*)}

貨幣需要GDPに比例すると仮定し、また名目為替レートの水準は米中両国の名目金利格差によって影響を受けると仮定すると、

S=\frac{M/M^*}{Y/Y^*}a(i-i^*)

ここでカバーなし金利平価 i-i^*=\Delta s^eが成立しているとすると(\Delta s^eは元の期待減価率)、上の式は

S =\frac{M/M^*}{Y/Y^*}a(\Delta s^e )

と書きかえられる。この式から、元-ドルレートは元の期待減価率が低下した時、ドルの元に対する相対的供給量が上昇した時、そして中国GDP の相対的規模が上昇した時に上昇することになる。
 もし今、元の増価が期待されているにもかかわらず、政府介入などにより元の実際の増価が抑えられている場合はどうなるか。これは上の式において、\Delta s^eの低下に見合うほど、Sが低下しない、という状況に相当する。ここで米中両国のGDPの値が潜在GDPに達しており、一定だとすると、両辺が等しくなるためにはM/M*、すなわち中国国内におけるマネーサプライが相対的に上昇する必要がある。すなわち、元の増価期待が非常に高まっている(例えば年10%)状態のもとで、それより低い(年5%)程度の小刻みな元高政策をとったとすると、それは金融引き締め効果を持つどころか、むしろアメリカからの資金の流入を促し、国内のインフレ圧力をますます加速させてしまうのである。これが、元高が持続的に生じた2006年後半以降2008年夏までの時期にまさに生じたことであった。この時期、元はドルに対して年数%切り上がり続けたが、同時に中国のインフレ率はアメリカのそれを数%一貫して上回っていたのである。

Menzie Chinnによると、ほぼ同じことをFinancial Timesのエコノミスト、Arthur Kroeberも主張しているらしい。
http://www.econbrowser.com/archives/2010/03/whither_the_yua.htmlより。

...the gradual appreciation of 2005-08 was problematic: because the renminbi moved only one way, lots of international capital flowed into China to play the apparent one-way bet. Inciting huge capital inflows at a time when Beijing is already battling the strongest inflationary pressure in years is unappealing.
Logically, the way around this is to start with a very quick appreciation of at least 10 per cent to take the one-way-bet calculation out of the market.
There is a strong case for making a move soon. The longer China waits, the more criticism it will attract for its undervalued exchange rate.

 この状況を避けるためには、小刻みな調整ではなく、増価期待に見合うだけの切り上げを一気に行って後は適宜フロートさせるというのが合理的なのかもしれない。しかし、その場合の輸出産業に与えるショック、およびドル資産の資産価値の低下による資産デフレ効果がどの程度になるか、ちょっと予想がつかず、このやり方はかなりリスクが大きいと言わざるを得ない。
 というわけで、たとえクルーグマンの議論に対する中国政府当局や中国人エコノミストたちの批判が正しかったとしても−私も彼らの方が正しいと考えるが−それは必すしも彼らにとってハッピーな結論を意味しないだろう。上に述べた理由により、現在の中国政府は、こと為替政策に関してはあちらを立てればこちらが立たず、完全に袋小路に追い込まれていると考えられるからだ。