といっても聖火リレーともチベットとも全然関係ない話ですみません。『信濃毎日新聞』で長期連載されている「石原吉郎 沈黙の言葉」という記事(写真)の紹介である。
記事を書いている畑谷史代さんはこの仕事の前にはハンセン病患者への聞き取りなどを手がけてきた硬派かつ社会派の記者さんで、それがなぜ今石原吉郎なのか、ということは連載記事を読んでいけばわかる(多分)。実は僕もちょっとだけ協力していて、以前このブログに書いた文章id:kaikaji:20050616が目に留まったのでインタヴューしたい、という電話があったのがもう一年以上前になる。インタヴューのときはバークレーに滞在していたとき、イラク戦争での米兵の犠牲者が2000名を超えた時にニューヨークタイムズが反戦のキャンペーン記事を汲んだのを目にしたときのなんとも「嫌な感じ」などについて話をした。
『望郷と海』などの石原のラーゲリ体験の手記は、1970年前後の、反米とともに反スターリニズム的な色彩の強い、新左翼的な空気の中で広く読まれた。畑谷さんの記事の中では、そのような時代の「空気」と石原自身の抑留体験に根ざした思想の間には実は超えがたい距離があったことなどが、丁寧な取材でフォローされている。地味な仕事だけれど、ぜひ単行本化されてほしい企画だと思う。
さて、最初に聖火リレーとは関係ない、と書いたが、実はそうではないかも知れない、というのがこのエントリの本当のねらいである。以前id:kaikaji:20080330以下のように書いたとき、「人は情報によって告発すべきではない」という「アイヒマンの告発」の中にある石原吉郎の言葉が念頭にはあった。
一連の事件に関して、今起きているのは中国政府とチベット亡命政府との「情報戦」だという表現をよく見かける。それは間違ってはいないだろう。しかし、その「戦い」が、すべての「情報戦」がそうであるように、はじめから「当事者」の声を排除したところで成立しているものだということを忘れてはならないだろう。このことは、チベット人サイドに立つ人々や良心的なジャーナリストは、誠実であろうとすればするほどある種のジレンマに直面してしまうことを意味している。彼(女)らが中国政府当局が仕掛ける「情報戦」に正面から対抗しようとするほど、その「対抗メッセージ」は象徴性をおび、本当に大切にされなければならないはずの「当事者」の声が置き去りにされてしまうと考えられるからである。
しかしこのネット時代において、「情報による告発」を避けることはほとんど不可能なことのように思える。例えば中国系の人々によるアンチCNNやカルフールへのボイコットも、一応は「当事者でもない者が「情報」によって行う告発」への反発として理解できる。しかし、言うまでもなく、そのような行為自体が「当事者」へのまなざしを欠いた「告発の政治」に陥っていることは明らかである。「一人の死」がないがしろにされるのは、なにも大量殺戮の場合だけではない。徹底的に政治的な文脈でしか語られない、あるいは統治者(トウジシャではなく)の都合でしか扱われない「死」があるとしたら、そこではやはり「個人の死」はないがしろにされているというべきではないだろうか。「情報による告発」を拒絶しつつ、なお「一人の死」がないがしろにされる状況に対して沈黙しないとすれば、一体どのようなやり方が可能だろうか。
- 作者: 畑谷史代
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