梶ピエールのブログ

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『外務省のラスプーチン』をどう読むか

やはり佐藤優国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』ISBN:4104752010 がかなり話題になっているようだ(id:hmmm:20050410参照)。現役財務官僚のbewaadさんも夢中で読んでいるというし。だがよく見かけるような「当事者しか知りえない外務省の内部情報がふんだんに盛り込まれた、スパイ小説顔負けの読み物」とか「国家権力に裏切られた男の告発本」いう評価は、いずれもこの本の「可能性の中心」に注目していない一面的なものではないかという気がする。この本の価値を「真実はこうだったのか」というところのみで捉えてしまうと、「インテリジェンス絡みの話が沢山あるので部外者にはそれがウソなのか本当なのかわからない」(id:hmmm:20050412#p2)といった懐疑が常につきまとうことになるからだ。


 だが、僕の考えではこの本の持つ価値は「当事者にしか知りえない情報」それ自体にはない。例えば鈴木宗男が本当はいい奴なのかどうか、といったことは少なくとも僕にとってはどうでもいい。むしろ重要なのは、本書においてそれらの情報が徹底的に論理的な構成のもとに配列されていることである。このことは、本書がふつうわれわれが断片的にしか知りえない外交上の「情報」をつなぎ合わせて全体をおぼろげながら理解するための論理構成を提供してくれているということを意味する。
 その意味では佐藤氏は荒いものであるけれども、ある程度の「実証」にたえうる「仮説」の積み重ねからなる、社会科学的な「モデル」を提示しているといってもいいかも知れない。そして外務省や外交上の意思決定という一般の市民にとってその多くが「ブラックボックス」である領域については、個々の情報の信憑性よりも、そのような「モデル」の提示こそが決定的に重要な意味を持つのではないだろうか。

 例えば、佐藤氏により紹介される本書の登場人物の発言や会話の内容が本当かどうかは部外者の読者には絶対にわからない。しかし、佐藤氏が提示している「モデル」がもっともらしいかどうかということは、読者にも判断は可能である。例えば本書の記述から組織が一つの意思決定をする場合「情報」がどのように収集・流通・管理されるべきか、について徹底的に論理的な整理がなされており、読者はそこから組織の意思決定に関する一般化された「モデル」を汲み取ることができる。これに対し読者は自分が属している組織の意思決定のメカニズムに照らし合わせて、佐藤氏の提示する「モデル」が妥当なものか判断することができる。また、外務省に関する別の情報に接した時に、佐藤氏が示した「モデル」と整合的かどうかを検討することもできる。このようなプロセスを得ることによって、われわれには佐藤氏が提示した外交・外務省の意思決定に関する「モデル」が信頼できるものかどうかある程度「客観的に」検証する余地が残されているのだ。

 外交のような分野で当事者にしか知りえない情報をただ羅列されても、部外者である読者にとってその多くは退屈で無意味な情報の羅列でしかないだろう。そもそも外務省というブラックボックスがその内部で各アクターがどのような目的のもとでどのような意思決定のメカニズムを働かしているのかに関する「モデル」が存在しない(少なくとも広く共有されていない)ので、情報が断片的に流れてきても、それがどのように意味を持つのかが判断するすべがないである。だから鈴木宗男バッシングの「空気」が醸成された時(それが「国策」であるにせよないにせよ)マスコミも世論も一斉にそれに流され、誰も止められない、ということが生じる。このことは、情報それ自体の公開の問題よりも実は重要ではないかと思われる。このような「モデル」不在の状況のもとでは、この本で佐藤氏に厳しく指弾されている学者達のように、普段外務省と仲良くお付き合いをするのでなければ外交について何か語ることができない、つまりは外交の分野では正常なジャーナリズムは機能しないということになるからだ。

 そう、この構図は例えば 山形浩生さんが強調する、「なぜポール・クルーグマンブッシュ政権のデタラメな経済政策についてあれだけ厳しくかつ的確な批判を行うことができたのか」、という問題意識にもつながる。その答えは、もちろん彼がディープスロートから提供される秘密情報ではなく、経済学という最もソリッドな社会科学のモデルと誰でもアクセスできる公開情報の組み合わせを武器に戦ったからである。本書で示されている、僕が「モデル」と呼んできたものは、もちろん経済学ほどソリッドで応用範囲の広いものではないし、賞味期限も短いだろう。しかし、その「モデル」を頭に入れているのといないのとでは、外交に関する「公開情報」を評価する能力は格段に変化するだろう。その意味では十分「武器」として使えるし、それを洗練させていけるかどうかは今後のジャーナリストや市民の努力にかかっている。
 
 以上のような意味で、極端なことを言えば、佐藤氏が個々の人物や事実関係について書いていることに真っ赤な嘘が多数混じっていても、この本が持っている真の価値にはいささかも影響しない、とさえ僕は思う。この本の真の価値は、秘密情報の威力も限界も知り尽くした著者が、外交という分野で行われていることを論理的に理解するためのモデル、という「市民にとっての教養」を提供してくれるところにある、と考えるからだ。