先日刊行された『ゲンロン12』の東浩紀氏(以下敬称略)の論考「訂正可能性の哲学」を読んだ。これで、ゲンロン10から3号分の彼の長編評論を、比較的短期間のうちに読んだことになる。もちろん扱っているテーマは異なるのだが、そこに一貫する姿勢として、「中途半端な立場」からの社会へのコミットメントをどう倫理的に肯定するか、という課題が繊細な言葉で語られているように感じた。
僕はこれまでにも東の主な著作は読んでいたし、自分の書いたものにもしばしば引用はしてきたのだが、熱心な読者かというと必ずしもそうではなかった。『観光客の哲学』も出た時に読んでそれなりに面白い、と感じたものの、特に自分の仕事に結びつけて深く読み込むということはせず、そのままになっていた。
それが、ここしばらく、強い関心を持って読むようになったのは、やはり、中国研究を取り巻く状況がこの2,3年の間にそれまでとは大きく変わってしまったことと大きく関係している。
もともと、ある地域を対象とする研究者は、その地域に長期間滞在したり、幅広い人脈を築いたりすることもあるものの、結局は観光客とそれほどは変わらない、「中途半端」な存在である。そのことは、だからこそ、その国の社会や経済を「客観的に」分析することができる、とこれまではおおむね肯定的にとらえられてきたはずだ。
だが、その前提は、少なくとも中国研究に関して言えば、2018年の米中経済摩擦に始まり、その後の香港の民主化運動とその弾圧、新疆ウイグル自治区の収容所をめぐる問題など、普遍的な「正義」をめぐる中国のふるまいと、それに対する西側諸国の受け止め方のギャップを際立たせる一連の問題群によって、大きく揺さぶられるようになった。
早い話が、中国経済の先行きについて肯定的に語るだけで、「中国政府の『悪』に目をつぶっている」と非難されかねない、そんな居心地の悪さを感じるようになったのだ。それとは逆の現象、中国の外交姿勢を客観的に分析してきた研究者が、それまでうまく付き合ってきた中国の友人から、「反中」的だとみなされて縁を切られる、ということもあちこちで起きていると聞く。
要は、多くの研究者がこれまでのような「中途半端」な存在として中国に関わることが難しくなり、どのように対象と関わり、どのような語り方をすべきなのか、お互いに顔いろを伺い腹を探り合っているような、そんな息苦しさが業界全体に広がりつつある、とでも言えばいいだろうか。その辺の「息苦しさ」については以前の記事で少し触れた通りである。
そんな中で、東の以下のような文章が、まさに「自分のこと」として心に響くようになった、ということなのだと思う。
それゆえぼくはこの時代においては、逆に、何かについて中途半端に調べ、中途半端にコミットすることの価値を積極的に肯定するべきだと考えている。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向き合うことができない。僕たちはどうせすべての問題に中途半端にしかかかわることができないのだから、その条件を排除しない社会思想をきちんと立ち上げなければならないのだ(『ゲンロン12』77ページ)。
では、東の言うような「中途半端にコミットする存在」は、いかにして政治や、公共性を担うことができるのか。
それは「訂正可能性の哲学」では直接には触れられていないが、今後ポパーの「反証可能性」の概念をベースに、本格的に展開されることが予告されており、すでにその一部が公表されている。
しかし、ここではこれ以上東の議論には踏み込まず、同じ問題意識を自分なりに、別の視点から考えてみることにしたい。そこでのキーワードは、アダム・スミスが『道徳感情論』で用いた「公平な観察者」である。 というのも、ある社会に中途半端にコミットする人間は、当事者にはなりえないが、しかし、「公平な観察者」にはなりえる、と思うからだ。
例えば、アマルティア・センは、その主著の一つ『正義のアイディア』で、社会契約を通じて「理想の社会」を目指そうという試みが、しばしば先験的な「あるべき姿」にこだわるあまり、現実感覚を欠いたものになりがちだと指摘し、それに代わるものとして「実現ベースの比較」、すなわち少しでも多くの正義が実現された「より良い」社会を、複数の現実を比較することによって実現すべし、と主張した。
だが、現在よりも「より良い」状態とは、どのような基準で判断されるべきなのか?
そこでセンが依拠するのが、スミスの「公平な観察者」という概念だ。センによれば、「公平な観察者」は、先験的な「正しさ」に基づいて普遍的な判断を下す存在ではなく、自らの経験に基づいて「明らかな不正」を取り除くことに貢献する存在である。とくに現在のように社会の分断化が進んだ状況においては、そういった存在の重要性はますます際立っている、といえるだろう。
だから、ある社会に、中途半端なコミットメントであっても、「公平な観察者」として関わる人々がぶ厚い層として存在することは、確実にその社会にポジティブな影響を与えることができるのではないか。僕が今考えているのはそんなことだ。
現代の『道徳感情論』の標準的な解釈(例えば堂目卓生『アダム・スミス』中公新書など)では、「公平な観察者」とは、むしろ個人の脳内に存在するバーチャルな存在であり、他者への偏りのない共感を基に、道徳的判断の根拠を与えるものだ、とされる。このような、心の中の法廷で判断を下す、内部化された存在として「公平な観察者」を捉えるとき、それは限りなくカントの定言命法に近付くように思われる。
しかし、「公平な観察者」についてはそうではない見方、いわばもうすこし外在主義的な解釈もできるのではないか。つまり、「公平な観察者」は、個々の人間の心の中に存在するだけではなく、文字通りの「観察者」として、社会の中に実在する存在と不可分に結びついている、と考えた方がよいのではないか。
これは、職場や学校などでハラスメントが起きた場面を考えてみればわかるだろう。そのときに関係者が直ちにしなければならないのは、被害者、加害者を引き離し、双方の言い分を聞くための第三者的なハラスメント防止委員会を設置することだ。そして、この委員会の構成員に求められるのは、加害者・被害者ともに特別な関係を持たない、まさに「偏りのない」存在であることだ。
このような現実の制度において、「偏りのない第三者」としての形式的な要件が要請されるからこそ、そこから派生的に、各自の内面における「公平の観察者」の具体的なイメージが生じてくるのではないだろうか。このように考えると、ある社会で生じたもめごとなどに対して、道徳的に妥当な判断がなされるためには、まず第三者が対立する双方の言い分を聞き、道徳的な判断を行うための「制度」が形式的に成立していることが、決定的に重要だ、ということになる*1。逆に、そういった形式的な「制度」が持続的に存在しないところでは、個人の内面にある「公平な観察者」はすぐにやせ細ってしまうだろう。
この「偏りのない第三者」は、ハラスメント防止委員会や選挙監視団のような、ある種の社会制度のようなものである場合もあれば、ジャーナリストや現地駐在員、あるいは観光客や、テレビのニュース番組の視聴者であることもあるだろう。そう、ここでいう公平な観察者の「偏りのなさ」は、むしろその当事者にはなりえない「中途半端さ」と深いつながりを持っている。「公平な観察者」をこのように外在主義的に理解することで、地域研究者のように「中途半端に現地社会とかかわる」存在にも倫理的な意味づけを行うことができるかもしれない。
なぜなら、中途半端に現地に関わる人間は、当事者にはなりえないが、しかし、「公平な観察者」にはなりえるからだ。
・・ここまで考えを進めたうえで、次により具体的なケースとして、今年の7月に名古屋で開催された香港インディペンデント映画祭で見た『理大囲城』という作品を題材に、香港の情勢についてどのようにコミットできるのか?という観点から考えてみたい。
『理大囲城』は、デモ隊と警察との衝突が頂点に達した2019年11月、同じように激しい衝突の現場となった香港中文大学に続き、香港理工大学に11日間にわたって立てこもったデモ隊の学生らと、キャンパスを包囲して投降を呼びかける武装警察(機動隊)との壮絶な攻防を描いた作品だ。
ちなみにこの作品は関西と名古屋でしか劇場公開されていないが、10月7日から開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭でオンライン上演される。
監督や撮影者ら制作に携わった人々は匿名とされているが、デモ隊と警察との生々しい衝突のシーン、デモ隊の身柄拘束のシーンまでももカメラは至近距離からとらえており、黄色のジャケットをつけた、すなわちデモに協力的だとみなされたメディア関係者によって撮影が行われたことは明らかだ。
緊迫したシチュエーションの中で「捕まったら拷問される、レイプされる」と叫ぶ学生たち。警官は学生を「ゴキブリ」と呼び、学生は警官を憎しみを込めて「黒警」と呼ぶ。こうした状況を限り、デモ隊と警察との衝突が、もっと悲惨な結末を招いた可能性は決して小さくなかった。カメラが如実に捉えた、実際の両者の衝突と、警察によるデモ隊への容赦のない制圧のシーンを見るだけでも、両者の感情的な憎悪が頂点に達していたことは明らかだ。最終的には、衝突が回避できたのはデモ隊があまりに弱い、すなわち大した武器を持っていなかったから、なのかもしれない。
だが、決してそれだけではないことを、この映画は教えてくれる。
ここで注目したいのが、映画で描かれていた二つの当事者ではないもの、すなわち「公平な観察者」たちの存在である。
一つは、言うまでもなく、映像の撮影者を含む、学生たちに密着して記録するメディアの存在だ。武装した警官は、何度も「撮るな」とカメラマンに警告を発するが、彼らは決してデモ隊に対するような暴力をメディア関係者には振るわない。そうすると、あとでややこしいことになることを頭に叩き込まれているからだ。だから彼らが記録を続け、その「眼」が意識されている限り、警察の暴力には一定の歯止めがかけられていたはずだ。このことの意味は、同じような衝突が中国大陸で生じたらどうなるか、ということを考えれば明らかだろう。
もちろん、ここでいう「公平な観察者」とは、撮影者がどちらの陣営にも肩入れしない、ということを意味しない。黄色のジャケットを着たメディア関係者たちが学生の寄り添っていることは明らかだ。にもかかわらず、彼らの撮った映像はあくまでも「公平」なものとして機能する。彼らのカメラは、デモ隊の内部にまで入り込んでいるがゆえに、学生たちの「弱さ」をも赤裸々に移すものになっているからだ。また、不安になった学生たちは運動の方針について常に衝突し、時には罵り合う。しかし、その衝突が決して一線を越えないのは、常にカメラで撮られているという緊張感のためだろう。
もう一方の「公平な観察者」とは、後半部分で描かれる、包囲されたキャンパスを訪れて学生たちに投降を呼びかける、数十名の高校の校長たちの存在である。このシーンは映画の中の一つのクライマックスだと言ってよい。閉じ込められたデモ隊の中には、大学生だけではなく、多くの高校生も参加していた。未成年である彼(女)たちが逮捕されたり、大けがを負って、将来を閉ざされることだけは避けたいと、民主派の議員および校長たちが警察と交渉をして、学生たちの個人情報を警察が登録するということを条件に、キャンパスの外に連れ出すことを了承させたのである。
この校長たちの働きかけにより、結果的に数百人の学生がキャンパスから退去したという。カメラは、その際の学生の心理の「揺れ」も克明に描く。校長たちを権力の手先に過ぎない、信用できない、として罵声を浴びせる学生たち。しかし、いかに暴言を吐かれても、ひるまず、このまま籠城を続けても「先」がないと説得を続ける校長たちの姿に、学生たちは次第に動揺する。結果泣きながら大学から退去することを選ぶ学生たちを、キャンパスに残った学生たちも黙って見送る。最後までキャンパスに引き返そうか逡巡する学生の映像が実に印象的だ。
もうお分かりかもしれないが、僕が映画を見ていて個人的に最も共感を覚えたのが、この校長たちの行動だった。確かに、学生たちが言うように、こういった当局との妥協によって事態の収拾を図る教育者たちの行動は、「絶対悪」である香港政府、中国共産党に加担するものだ、という批判もありうるだろう。しかし、実際には、この中途半端かもしれないが「偏りのない第三者」としての行動が、結果的に決定的な暴力の連鎖、すなわち現実に生じてもおかしくない「悪」の発生を食い止めたのではないだろうか?少なくとも、メディアを含め、日本に住む僕たちはこういう人たちの存在ももう少し重く受け止めるべきではなかったか、と考えている。
よく知られているように、2019年の香港デモは、当初の反送中法の撤回というワンイッシューの社会運動から、包括的な民主化運動、「社会契約のやり直し」を求める社会運動へとその性格を変えた。中国の一部に組み込まれ、自由を奪われていくことに対抗するには、自由を求める香港市民の一般意思を最大限生かした社会契約のやり直しを行うしかない、というのがコンセンサスになっていった、といえるだろう。
そういった立場からは、上記のような校長たちのとった行動は、「社会契約のやり直し」に水を差し、体制の片棒を担ぐもののように思われることだろう。もちろん、そう捉えることには根拠がある。権力が振るうむき出しの暴力に対しては、結局のところ「公平な観察者」は無力だからだ。例えば1989年の第二次天安門事件の時、多くの海外メディアの映像がその様子を伝え、その映像を目にした「公平な観察者」がデモを支持していたにも関わらす、共産党が決定すればむき出しの暴力をだれも止められなかった。戒厳令前は多くの兵士が学生たちと交流をしていた映像も残されている。しかし、軍隊の命令系統の前では、個々の兵士の良心は何の歯止めにもならなかった。
しかし、だからといって、現在の香港においてもはや「公平な観察者」は何の役割も果たせない、と決めつけるのは早急に過ぎる。というのも、結局のところ「社会契約のやり直し」は何らかの暴力装置の支えなしでは実現することは困難だからだ。たとえば、米国が成立させた、「香港人権・民主主義法案」は、多くの香港市民や、海外のサポーターがそれを支持したにもかかわらず、香港における社会契約のやり直しが、結局は市民の「一般意思」などではなく、大国による介入の意思の有無にこそ左右される、という厳然たる事実を、明らかにしたのではないだろうか。
だからこそ僕は、現在の香港において、『理大囲城』で描かれた校長たちのとった行動のように、かならずしも社会契約のやり直しを伴わなくとも、少しでも具体的な「悪」を回避し、社会としてより良い状態を目指そうとする市民たちの行為にはそれだけで意味がある、と考えている。少なくとも、そういった市民たちの具体的な姿勢やささやかな声に、僕たちはもう少し敏感であってもよいのではないだろうか。
・・もちろん、僕がここで書いたことにはもちろん、賛同できないという人もたくさんいるだろう。でも、たとえそうだとしても、『理大囲城』は実に多くのことを考えさせてくれる、素晴らしいドキュメンタリー映画である。すでに述べたように、作品は山形国際ドキュメンタリー映画祭でオンライン公開される。この機会に、一人でも多くの人に見てほしいと思う。