梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

中国思想における「絶対悪」と米中対立

vimeo.com


 四連休の間、少し思うところがあって、4年前に講談社学術文庫に収録されたフランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』について、同書の訳者で、中国思想史の専門家である中島隆博と批評家の東浩紀が語り合ったゲンロンカフェのイベント映像(「カントと孟子が語り合うーー『道徳を基礎づける』講談社学術文庫版刊行記念トークイベント」)を視聴した(公開時には見逃していた)。
 そして、その内容は現在のいわゆる「中国問題」を考える上でも示唆に富んでいると思ったので、そこで語られたことをベースに自分なりの考えをまとめてみたい。

bookclub.kodansha.co.jp

 論じられた内容は多岐に上るが、個人的に現代の中国問題を考える上でとても重要だと感じたのが、後半部分で東によって提起された、中国思想における「超越性」と、そこで提起される「悪」の問題である。そこでの問題提起を僕なりに理解するなら、次のようになるだろう。すなわち、西洋哲学の伝統に基づいた超越性の概念なしに倫理を論じることは可能なのか。可能だとして、その倫理において「悪」についてはどのようにして解決が図られるのか。

 そこで議論のベースになるのが、ジュリアンによる、「(孟子に代表される)中国思想には、(根源的・絶対的な)悪が存在しない」という断定に近い命題である。これに関連して、トークショーでは「(古代中国では)悪政を、打倒すべき専制とは考えずに、回復すべき乱だと考えていた」「一般的に中国人は、過ちを(悪としてではなく)乱調としてしか考えない。それを形而上学的な問題にしないよう用心している」という『道徳を基礎づける』の記述が紹介され、あくまでも「乱れ」に対する憂いをもって「善からぬこと」に対応しようする孟子の思想が、罪の感情とそこから生じる責任によって「絶対悪」に対峙しようとする(=「ダメ、ゼッタイ」)西洋思想と対比される形で語られる。

 さらに、このような中国思想における「悪」の不在に関して、東が次のような興味深い問題提起を行っている。すなわち、「世界の中に「絶対悪」を設定し、それを告発しなければならない、という(西洋に典型的な)思想の構えは、日本を含む東洋社会では弱いのではないのか。むしろ、絶対的な悪は存在せず、それぞれの人間の事情が複雑に絡まり合うことで「善からぬこと」が結果として起きてしまう、だからそれらをうまく調整すれば何とかなるというストーリーの方が、自分も含め、東洋人にはしっくりくるのではないか」と。

 中島のトークの中身は、かなりの部分が『道徳を基礎づける』だけでなく、自身の著作『悪の哲学』の内容と重なっているのだが、このような東の問題提起に対して、「自分も、この本を書くの際に、『中国思想に「悪」という概念は存在するのか』という『呪い』にからめとられ悪戦苦闘した」「『中国思想において悪とは何か』という問いに対して、きれいに整理された形で答えることはできない」と反応している。

www.chikumashobo.co.jp

 さて、このような思想における「絶対悪」の問題が、いま、現代中国の問題を考える上でなぜ重要なのか。いうまでもなく、現在の米中対立の背景の一つである、中国の人権問題における西側諸国の厳しい批判の背景に、この問題に関して、習近平をリーダーとする中国共産党が一種の「絶対悪」に近い役割を果たしているということが、暗黙の了解として共有されているからである。

 一方で、かなりリベラルな考えを持つ知識人を含め、多くの中国人にとって、これは極めて理不尽な断定だ、と受け止められることだろう。たしかに、現在香港で、新疆で「憂うべきこと」が生じている、ということは理解している。その中で苦しんでいる人々に対して、たしかに同情すべき事情が多いことも認めよう。しかし、それは中国の現在の体制が「絶対悪」だからこそ生じているのだ、と言われたら、それはあまりに不当な言いがかりだ、といわざるを得ない。なぜなら、そこには現在の中国の体制の中で現状に様々な意見を持ちながらも、何とか日々の暮らしを営んでいる人々の存在が、視野から全く欠落しているからだ。

 ・・これが多くの、穏健な考え方を持つ中国知識人の心情ではないだろうか。単純化を恐れずに言うなら、彼(女)らにとって、現在の中国で生じている「憂うべきこと」は、人々の行動が(現地の為政者の無能、その他の要因によって)うまく調整されなかった結果生じた「乱調」なのであり、そこに「絶対悪」の存在を仮定することは、決して問題の解決につながらない、ということが、半ば直感的に確信されているだろうからだ。
 このような状況の下で、米国政府のように、中国共産党こそが「絶対悪」なのだ、という態度をますます先鋭化させるのではなく、かといって、中国政府のように「憂うべき問題」の存在自体を否定する態度を取るのでもない、中国の人権問題へのアプローチは可能なのか。こう考えるとき、上記の中島と東の対話は、がぜんアクチュアルな光を放ってくるだろう。
 その上で、さらに議論を前に進めていくために検討しなければならない問題として、次の三つを挙げておきたい。

 一つは、中国の伝統思想(特に儒教)の中に「悪といかに対峙するのか」という問題意識が希薄なのだとしても、近代以降、外来思想の流入によって善悪の二元論に近いものが生まれてきたことは否定できないだろう。特に毛沢東時代に生じたことは「絶対悪を打倒する」というイデオロギー的構えを抜きに考えることは困難だろう。
 つまり、このようには考えられないだろうか。現代の中国社会では、「絶対悪」の概念が、すでに毛沢東によってゆがんだ形で導入されており、その負の記憶こそが、人々をして社会問題の解決原理として「絶対悪」を持ち出すこと、あまつさえそれを外国から押し付けられることに対する徹底した拒否反応を生じさせるのだ、と。すくなくとも僕は、現代中国と絶対悪の問題を考える上で、毛沢東の存在は避けて通れないように感じている。

 もう一つの問題は、改革開放期以降の中国が、功利主義をいわば事実上の倫理的な規範として採用したことが、そのような「絶対悪」や「罪と責任」をめぐる西側との価値観の対立を覆い隠してきたのではないか、ということだ。もちろん、第二次天安門事件のように、その矛盾が顕在化したことは何度もあったものの、功利主義がもつ一種の「自己修復性」によって、矛盾が修復不可能な亀裂になるまでには至らなかった*1。現状においてなお、中国政府は西側諸国との対立は基本的に功利主義によって解決可能だ、と考えているふしがある。しかし、問われているのは超越的な「悪」や責任の問題なのだ、ということが中国側でも理解さない限り、問題はこじれるばかりではないだろうか。

 第三は、悪と自由意志との関係に関する問題である。ジュリアンも論じているように、西洋的な「絶対悪」の概念は、「自由意志」およびそれに結びついた選択の問題と深く結びついている。「絶対悪」は、必ず自由意志によって悪行を自ら選び取った存在でなければならない。そうでなければその罪に対する責任を問うこともできないからだ。そこには自由意志の不可侵性が前提とされている。
 しかし以前、このブログでも少し論じたように、近年の進化心理学などの知見によって、人間の生物学的な因果的制約を受けないような、自由意志の存在はほぼ否定されるようになっている。デネットらが論じているように、自然主義と両立可能な形で自由意志を擁護することはもちろん可能だが、それは因果的制約に矛盾しないという制約付きで、いわば「デフレ化」した形でなされなければならない、という認識が徐々に広がりつつある。このような自然主義倫理学への浸透は、上記「絶対悪」に対する見方にも影響を及ぼさざるを得ないのではないだろうか。
 このようなデネット流の自然主義の浸透は、デフレ化した自由意志論を新たな「共通貨幣」として、中国のような非西洋文明と西側諸国との対話を可能にする、という思わぬ効用をもつかもしれない。「世の中、ほとんどのことは(純粋な)自由意志では決定できない」という自然主義的な世界観は、「世の中の憂うべきことのほとんどは、それぞれの「やむにやまれぬ事情」の複雑な絡み合いによって生じている」という世界観とどこかで通じ合うからだ。

 以上、三つの問題は、これまで僕自身が考えてきた問題意識に引きずられすぎているかもしれない。しかし言い換えれば、どこかで現代中国の問題を考える上でも補助線になるような予感がしたからこそ、これらの問題に少しづつでも関心を持ち続けてこられたような気もしている。そのことに気付かされた、という意味でも、両者の対談にこのタイミングで触れることができたことは、とても有意義だったと思う。

*1:さらに、いうまでもなく、中国が先の大戦においてまぎれもなく日本軍に侵略によって最大の被害を受けた、つまり一貫して罪を告発されるのではなく、告発する側にいた、という事実も、この矛盾の回避には大きく寄与しただろう。