梶ピエールのブログ

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自然主義のソフトランディングのために―地動説から監視社会まで―

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 ビッグコミックスピリッツに連載されている『チ。―地球の運動について―』は連載を楽しみにしているマンガの一つだ。15世紀の、科学革命以前のヨーロッパにおいて、まさに命がけで「真理」を追究しようとする名もなき知性たちに焦点を当てた作品だが、最近になって印象的に登場したと思ったらすぐに最期を迎えたピャスト伯をはじめ、敵役の天動説を信じている人々の描写も素晴らしい。

 このマンガを読むとき、僕たちは、主人公たちが「なぜ命を懸けてまで地動説を追求しようとするのか?」という点に目を奪われがちだが、むしろ問うべきなのは「当時の人々はなぜ地動説をそこまで危険視していたのか?」ということではないかと思う。それには恐らく当時の神学と一体になっていた、「運命論」を含む目的論的自然観を理解することが不可欠になるだろう。天動説は「神の意志」を反映した目的論的な自然観から導かれたものであり、それゆえにそれを否定することは、神の自由意志、それを「分かち持つ」ことを許さてた人間の自由意志も否定することになりかねない。それゆえに当時のヨーロッパ社会に生きる人々は地動説を恐れたのではないだろうか。
 
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 そんなことを考えるきっかけになったのが木島泰三『自由意志の向こう側』を読んだことだ。同書は古代ギリシャに起源をもつ因果的決定論と目的論的自然観の対立の構図から、近年の認知科学や深化心理学を背景にした心の二重過程理論や認知モジュール論まで視野に入れた、射程の長い書物である。本書の記述で特に印象的なのは、因果的決定論は科学技術の進歩をもたらした人間にとって重要な思考でありながら、一方で人間の自由意志や道徳感情のに対する脅威として受け止められ、このため(スピノザのような例外を除き)それ自体が目的論的自然観の温床にもなってきた、という点だ。これについては、例えば次のようなくだりがわかりやすいだろう(同書115-116頁)。

 大抵の動物が生涯のほとんどの時間を本能的衝動に唯々諾々と従って過ごすのに対し、ヒトがその発達した想像力や自己意識や(何らかの意味での)自由意志によって、「意のままにならない」経験に数多く直面し、あるいはそれに先立ち、様々な事柄を「意のままに」しようとする生き物だ、ということは言えるだろう。

太古より、この「意のままにならなさ」の認識には、自然法則の認識や、そこから引き出される因果的決定論の思想が漠然と含まれていた。

 僕らの心ないし脳は、その「ままならなさ」を、誰かが、何らかの目的のために設定したものだと考えるように僕らを促してきたようである。そしてこの場合、その「ままならなさ」は「運命」や「摂理」として理解されるようになる。

 人間も自然物の一つである以上、人間の「意志」にはそれを形成した原因があり、その存在を科学的に解明できる、というのがスピノザをその嚆矢とする現代的な因果的決定論のキモだが、人間は往々にして「自由意志」を神聖化することでその事実を見失ってしまう。なぜなら、「人々は自分の意思という『結果』しか意識できず、自分をそこへ決定した『原因』については無知である。無知ゆえに、自分の意思は何の原因もなしに、つまりは自分が自分の力だけで決めたのだと思い込む」(29-30頁)からである。

 いうまでもなく、ヨーロッパ社会ではそのような「思い込み」のプロセスにキリスト教的な世界観が決定的な役割を果たす。同書によれば、キリスト教の目的論的な世界観の特徴は、自然科学をベースにした、「普遍的目的論」に加えて、「神の超越的な意思」によって導かれる、「個別的摂理」及びそれによって生じる「奇跡」によって世界の出来事を理解しようとするところにある(117頁)。そして、人間の「自由意志」はそのような「奇跡」として、自然法則の及ばないものとして神聖化される。『チ。』は、「神の超越的な意思」によって持つことを許された自由意志を神聖化する人々が、自然界を因果的決定論によって理解しようとする「異端者」の自由を徹底的に奪ってしまう、というパラドキシカルな世界を描いた作品として読むことができる。

 木島も指摘するように、このような「神の意思」を強調する世界観は、近代以降の、自然法則を超越して働くリバタリアン的な(ここでは、ほぼカント的な普遍主義的リベラリズム、と同じ意味で使われている)自由意志論の背景にある世界観にも反映されている。ここから、自由意志、ひいてはそれを社会的に担保する普遍的人権の絶対性を強調する近代的な価値観が、キリスト教的な目的論と分かちがたく結びついていることを読み取るのはそれほど難しくはない。この、普遍的な天賦人権論と因果的決定論との潜在的な緊張関係は、本書でも言及されるウィルソンの『社会生物学』に対する人文学研究者の反発や、最近ではポリティカル・コレクトネスをめぐるスティーブン・ピンカーへの評価などの問題までつながっている問題だといえるだろう。

https://synodos.jp/info/24150synodos.jp


 そして、「自由意志」の不可侵性にとどめを刺すかのようにして表れたのがダーウィンによる自然選択論と、その精緻化を通じた目的論の自然主義化の動きである。たとえば、デネットなど現在のダーウィニストたちが好んで持ち出す、ベンジャミン・リベットの実験によって、私たちが自分の意志で片手を上げる、といった行為のさいに、自分の「自由意志」だと思い込んでいるものは、実際は脳が引き起こす無意識の行動(=手を上げること)に遅れて起こる脳の反応に過ぎないことがわかっている。

wired.jp


 さて、本書を読めば、ダーウィニズムに代表される「ジワジワと浸透する」自然主義パースペクティブから人間や社会を眺める立場に対して、リバタリアン的な自由意志論に代表される「文系的」な立場がかなり劣勢に立たされていることは認めざるをえないだろう(それは大学における研究費の配分に如実に表れているかもしれない)。そういった立場の論者が往々にして主張しがちな、「このままAIとビッグデータによる支配がすすむことで、われわれは『人間らしさ』を失うかもしれない」といった言説は、結局のところ「運命論」の現代的な焼き直しに過ぎず、恐怖を煽るがゆえに一種のホラーとして消費される、「バグ・ベアー」としての役割しか果たさないだろうからだ。

 ただ、同書も強調しているように、そういった状況の中だからこそ、あくまでも人文的な知の伝統を生かしながら「自然主義のソフト・ランディング」を目指していくことは、これまで以上に大きな意味をもつことになるだろう。
 本書では十分に議論が展開されているわけではないが、「自然主義のソフト・ランディング」、すなわち、社会的規範としての因果的決定論の受容に際しては、その社会倫理学的な基礎付けに関する議論が不可欠になるだろう。社会的な動物としての人間は価値判断なしに社会を営んでいくことはできないからだ。しかし、自然主義パースペクティブは、その価値判断の基準として功利主義と結びつきがちな傾向がある。いうまでもなく、功利主義の最も強力な論的はカント的な普遍的人権論だが、それは究極のところリバタリアニズム的な自由意志論と結びついており、自然主義の浸透によってその基盤を掘り崩されつつあることは本書が繰り返し説くところだ
 たとえば、拙著『幸福な監視国家・中国』を読んでいただいた方ならおわかりの様に、中国を含めた監視テクノロジーへの依存は、人々の「自由意志」の感覚にとっては脅威になるものである一方、現実に犯罪などの抑止に効果を及ぼすという功利主義的な動機から導入されている、と僕は考えている。「自由意志」が持っていたアウラがすでに失われ、自然主義的人間観がジワジワと浸透するAI時代の世の中において、僕たちは功利主義的な「幸福な監視社会」を受け入れるしかないのだろうか?

 この点について、本書はこれからの「自然主義のソフトランディング」への人文学的知からの貢献に資するものとして、スピノザの思想を持ってくる。これは、功利主義に対して懐疑的な立場をとる僕のような人間にとっても腑に落ちる考え方だ。スピノザは、明らかに帰結主義的な倫理観を取っているとはいえ、決して「最大多数の最大幸福」を尊重する、という意味での功利主義を採用しているわけではなく、そしておそらくは現代の監視テクノロジーについても、それを無条件に肯定する立場には立たないだろうからだ。
 そのことをよく示しているのが、以下のようなスピノザの「自由」観に関しての同書の記述である(413-414頁)。

 スピノザによれば、人間の場合「自己の本性の必然性によって決定される」度合いがより多ければより自由であることになる、とみられる(cf.『エチカ』第一部定義七)。これは、自己の本質そのものを構成するような欲求に基づいて行為できる度合いが多ければ、それだけ自由に行為できている、ということであり、これをホッブズの「外的障害の欠如」という消極的な形に言い直したものと見てもよい。

 ここには、「自由意志」の神聖化によって裏付けられた天賦人権論とは異質な、より自然主義パースペクティブに裏付けられた、これからの普遍的人権論につながる思想が内包されているように思える。
 
 ただ、一方で「自然主義のソフトランディング」までの道のりは決して平たんなものではないだろう。尊重すべき「自己の本質」は自然環境だけではなく、「第2の自然」としての社会環境や社会制度、文化などによっても条件づけられているからだ。例えば、西欧社会と中国のように、かなり異質な「第2の自然」を構成する社会環境の元で暮らす人々同士が
「自己の本質そのものを構成するような欲求に基づいて行為できる」ような仕組みは、いったいどのようにすれば形成することができるのだろうか。現在のリベラリズム的な政治哲学や社会科学は、この点に新たな展望を見出すことができておらず、アセモグル=ロビンソンの「自由の狭い回廊」論に代表されるような、目的論的な世界観に回帰しつつあるのではないだろうか。
 ・・最後は『自由意志の向こう側』の内容からかなり逸脱してしまったが、それだけの想像力をかきたてられる好著だったということでお許しいただきたい。あとは自分なりにこういった問題意識に沿っていろいろと読んだり考えたりしていきたいと思います。