梶ピエールのブログ

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 『ニューズウィーク日本版』のウェブサイトで、何回かにわたって「中国の『監視社会化』を考える」というテーマで集中的に連載する機会をいただきました。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/12/post-11370_1.php

 第1回目は、中国におけるテクノロジーの目覚しい進展による「監視社会」化、という現実に対して、アジア社会における「市民社会」あるいは「市民的公共性」を問う、という観点からこれを論じるべきではないか、という問題提起を行いました。あまり読みやすい論考ではないかもしれませんが、よろしければご覧ください。

いわゆる現代の「監視社会」をめぐっては、これまでも欧米や日本などの事例を中心に、膨大な議論の蓄積があります。その中には、比較的単純な、「監視社会」をジョージ・オーウェルの『1984』で描かれたように人々の自由な活動や言論を脅かすディストピアと同一視し、警鐘をならすようなものもありますが、そういった議論はむしろ下火になってきています。それに代わって、近年の議論はテクノロジーの進展による「監視社会」化の進行は止めようのない動きであることを認めたうえで、大企業や政府によるビッグデータの管理あるいは「監視」のあり方を市民(社会)がどのようにチェックするのか、というところに議論の焦点が移りつつあります。

もちろん、習近平への権力集中が強化される現代中国において、そのような「市民による政府の「監視」の監視」というメカニズムは望むべくもありません。それでは、中国のような権威主義的な国家における「監視社会」化の進行は、欧米や日本におけるそれとは全く異質な、おぞましいディストピアの到来なのでしょうか。しかし、「監視社会」が現代社会において人々に受け入れられてきた背景が利便性・安全性と個人のプライバシー(人権)とのトレードオフにおいて、前者をより優先させる、功利主義的な姿勢にあるとしたら、中国におけるその受容と「西側先進諸国」におけるそれとの間に、明確に線を引くことはできませんし、そのように中国を「他者化」することが問題解決につながるとも思えません。