梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

「情報戦」と当事者性、あるいはメディア規制とパターナリズム


 日本でも報道されたが、数日前に、新華社通信や中央電視台などの国営メディアが一斉に「西側メディア」によるチベット報道について、写真の意図的なトリミングやネパールの写真の誤用といった「情報操作」を非難する報道を行うという動きがあった。
http://news.xinhuanet.com/newmedia/2008-03/26/content_7860098.htm


 すでにあちこちで指摘されているように、この一連の動きはかなり前からみられたインターネットにおける西側メディア批判の動き(代表的なものが有名なこれ)に国営メディアが「乗っかった」という性格を持つ。以下のものはこの一連の動きに関する比較的客観的なまとめである。
http://www.danwei.org/foreign_media_on_china/what_should_be_condemnded.php
http://www.danwei.org/foreign_media_on_china/scapegoating_cnn.php

While the anger on the part of young Chinese netizens is not being orchestrated by the Chinese government, the foreign ministry and XInhua are rather enjoying the whole affair.

 この件について感じたことを一つ二つ。

・上記の反CNNのサイトやYouTubeに投稿されたスライドショーについていえば、少し前に日本人ネチズンたちにより盛んに行われた捕鯨問題についてのオーストラリアの反応への非難や関連するスライドショーと、(その主張の是非はともかく)ほとんど同じセンスを感じた。逆に言えば、オーストラリアを非難する日本人ネチズンの反応も、欧米人からはほぼ間違いなくこの反CNNのサイトやスライドショーと同じ印象をもって受け止められるだろうということだ。もっとも、日本の場合政府がこのようなネチズンの主張に「乗っかる」ようなことはなかったわけだが。

・一連の事件に関して、今起きているのは中国政府とチベット亡命政府との「情報戦」だという表現をよく見かける。それは間違ってはいないだろう。しかし、その「戦い」が、すべての「情報戦」がそうであるように、はじめから「当事者」の声を排除したところで成立しているものだということを忘れてはならないだろう。このことは、チベット人サイドに立つ人々や良心的なジャーナリストは、誠実であろうとすればするほどある種のジレンマに直面してしまうことを意味している*1。彼(女)らが中国政府当局が仕掛ける「情報戦」に正面から対抗しようとするほど、その「対抗メッセージ」は象徴性をおび、本当に大切にされなければならないはずの「当事者」の声が置き去りにされてしまうと考えられるからである。

・既に述べたように今回の特徴はネチズンたちによる自発的な欧米メディア批判に政府系メディアが「乗っかった」形を取っている。このことの意味はおそらく大きい。たぶん、これからの(恐らくはこれまでもある程度はそうだったのだろうが)中国のネット規制は、政府が見せたくないものを徹底的にコントロールする、というよりも、マジョリティが「見たくないもの(例えばアバ県でのチベット人死者の写真など)」を政府が親切に隠してあげる、というパターナリスティックな性格を強めていくだろう。チベット人のようなマイノリティに対する政府の行動が、このようなマジョリティの側の「民主的」な声に支えられているという事実こそ、中国の少数民族問題の真の深刻さ・解決の困難を示すものであるといっていいだろう。

*1:そして、恐らく誰よりもそのジレンマを認識しているのがダライ・ラマなのだろう。