梶ピエールのブログ

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高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』

今更いうまでもないと思うが、本書は近年高まりを見せている日韓中のナショナリズムを「開発主義」の時代が去った後の社会の流動化、特に都市中間層をとりまく状況の変化によって引き起こされた一種の「疑似問題」としてとらえるという斬新な見取り図を描いて大きな話題を呼んだ。
 僕も以前 こんな見立てをしたぐらいだし、日中のナショナリズム(韓国についてはよくわからないが)に関する大枠の理解に関しては著者とそう変わらない、といっていいのかもしれない。

 しかし、各国の状況に関する具体的な記述になるといろいろと引っかかる点が出てくる。そしてそれは必ずしも枝葉末節として無視してよいというわけでなく、一つ一つが積み重なって最終的にはかなり大きな結論の違いに結びついてくるという気がする。日本に関する記述についてはすでに稲葉さん(id:shinichiroinaba:20060413#p1)や韓リフ先生(id:tanakahidetomi:20060605#p2)の指摘があるし、韓国の事情についてはほとんどわからない。というわけで僕はやはり中国のところについてだけ感想を述べよう。

 さて、本書中国に関する記述の中で僕が一番気になったのは「上からの流動化」という表現の多用である。この「上からの」という言葉がどういう意味で使われているのか、いまひとつはっきりしないのだ。

中国は堅固な組織に国民を囲い込むのではなく、半ば強制的にそれを破壊し、上から国民へ企業家精神を植えつけるという形で経済開発を行っているからだ(同書193ページ)。

中国はこの「後発性利益」を持って、開発主義的に「社会流動化」に適応するという、開発主義の新バージョンを試みようとしている(218ページ)。

以上のような本書の記述から伺えるのは、政府がかなり計画的に、世界経済のグローバル化もにらみながら社会の青写真を描きつつ国有企業改革などの一連の市場主義的改革を行ってきた、という理解である。だが、どうもこれは実感とそぐわない。

 たとえば丸川知雄氏が『市場発生のダイナミクス――移行期の中国経済』(名著だが現在入手困難)などで強調しているのは、耐久消費財の価格自由化などの市場主義的改革において、個々の企業やあるいは地方政府の主導により「既成事実」としてそれが進められ、中央政府はむしろ事後的にそれを追認するケースが多かった、ということである。
 また「国有」企業といっても中国の場合その多くは地方政府が実質的なコントロールを行ってきた。確かに近年国有企業のいわゆる「民営化」や「株式化」が雪崩を打って行われたが、その後も何らかの形で地元政府が実質的な介入を続けているケースがかなりにのぼると考えられる。また、国有企業の解体と連動した労働市場の流動化もかなり地域差が大きい。いずれも「上からの青写真」によって改革が行われている、というイメージとは遠い。これは日本や韓国の記述でもいえることだが、どうも著者は政府、特に中央官僚の「制度設計」の能力を過大評価する傾向があるのではないだろうか。

 あともう一つ気になるのがこの「上からの流動化」といわゆる「愛国主義教育」との関係である。政府が「上から」社会の流動化を進めていった、というというシナリオにこだわるなら、その不安を政府批判からそらすための反日ナショナリズムも「上から」あてがわれた、という理解をとるほうが自然ではないだろうか。しかし、もしそういう理解をするなら、「中国は政府からの不満をそらすために意図的に愛国主義教育を行っている」という保守系メディアで主流になっている見解と大して差がなくなってしまう。もし社会の流動化は「上から」行われたが、反日感情の発露はそうではないというなら、きちんとした検証が必要である。この辺を著者は意図的にあいまいにしているのではないか、という印象をうける。

 
 次に問題としたいのが、社会の流動化と共に誕生してきたとされる新・中間層の具体像についてである。著者は、ナショナリズムの問題は農民や出稼ぎ労働者といった底辺層ではなく、社会の流動化によって新たに生じた都市新中間層の問題としてとらえなければならないと主張している。この認識は恐らく正しい。
 そしてその具体像として、エリートサラリーマンや高いスキルを持ったいわゆる「高級人材」それに起業家といったいわば「上流中間層」と、いわゆる「下崗工人(国有企業からのリストラ組)」に代表される「下流中間層」があげられている。おそらくこの中間に、このブログでも何回か取り上げてきた「大衆化した大学生」を中心とする若年層が入ってくるのだろう。

 さて、問題はこれらの「新・中間層」のうち、ナショナリズムの方に動員されやすいのは具体的にどういう人々か、ということだ。高原氏は、「上流中間層」と「下流中間層」のどちらも社会の流動化による生活の不安にさらされている、という見解を取っている。しかし、実際「流動化」の度合いは上流と下流ではかなり違う。端的に言えば「上流」に行けばいくほどジョブ・ホッピングなどで職場を変わる機会が多いという意味では確かに「流動化」しているが、再び同じように高収入の職につける確率も非常に高い。その意味では「高位安定」しているといえる。また、近年の調査により指摘されているのは、共産党幹部の子弟であるかどうかが高学歴を身につけ、高収入の職業を得るうえでかなり有利に働く、などといった社会の上流での「階層」の固定化という現象である。こういった層にどれだけ「社会の流動化による不安からナショナリズムに動員される」という図式が有効かは疑問である。

 一方国有企業リストラ組に代表される「下流中間層」の実態はかなり悲惨である。この層が「社会の流動化」によって深刻な不安にさらされているというのはほぼ間違いない。しかし、かといって基本的に中高年層であるこの層が、反日デモなどの現実のナショナリズム運動にどれだけ関わっているかというと、これも大きな疑問符がつくのである。

 というわけで、新・中間層の中でも問題はやはり大学生に代表される若年層、しかももはやエリートとはいえない大衆化した学生たちなのではないだろうか。この層が社会に対する潜在的不定形な不満を抱えていて、「反日」という形をとらなくても何らかの形で爆発しやすいというのは先日の河南省の学生暴動が示している通りである。
 ただ、ここで注意したいのは、こういった若年層が抱えている問題というのは、一義的には急激な大学の産業化とそれに伴って生じた大学の乱立、さらにそれがもたらした深刻な就職難、といった「大学行政の失敗」が原因であって、必ずしも著者が強調するような経済のグローバル化がもたらす「社会・雇用形態の流動化」全般によるものと考える必要はないのではないか、ということだ。後者が真の原因であるとするならば、反日ナショナリズムの高まりにもう少し年齢的な広がりが見られてもいいはずだからだ。

 だとすれば、若年層の教育と就職に関する「正しい」政策がとられていさえすれば、少なくとも大学生を中心とする若年層があれほど広範に反日ナショナリズムに動員されることもなかったかもしれない、という推測もなりたつ。丁度、デフレによる社会の長期停滞がなければ、日本の嫌韓・嫌中ナショナリズムもそれほど激しいものにならなくてすんだかもしれないように。

 もちろん、これは実証的根拠に乏しい一つの仮説にしか過ぎない。が、著者による、経済のグローバル化が進むかぎり社会の流動化と疑似問題としてのナショナリズムの台頭は避けられない道であり、したがって特に若年層の「流動化への適応」と「価値観の転換」という「新手の構造改革」をすすめるべきだ、という提言もやはり同じぐらい実証的根拠に乏しい仮説ではないだろうか。

 いずれにせよ、本書のような大胆な仮説と政策提言を行うにあたっては、その土台となる「事実」の認識をもう少し深める必要があるように思う。例えば「憤青」の主体があたかも大学の大衆化によりハシゴを外された若年層であるような書き方をしたが、これもなんらデータにより裏づけられているわけではない。ただ、必ずしも独自の調査ではなくとも、既に膨大な量に達する社会階層や所得格差に関する既存研究を丁寧にフォローするだけでもかなりの「事実」に迫れたはずだ。この点、本書の切れ味の良さにはその裏面としての「危うさ」を感じざるを得ない。まあ、著者はなんといってもまだ若いので、「今後に期待しましょう」と寛大な態度をとっておけばいいのかもしれないけど。