- 作者: 中島岳志
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/07/22
- メディア: 単行本
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おすすめ。もともとインドは観光で一度訪れて中国以上にわけわかめな国だという強い印象を持ったことがある以外はほとんどなじみがない地域なのだが、この本はビジュアルも含めた豊富な事例と中島さんの軽妙な筆の運びもあって、インドの「今」がそれが抱えている問題点も含めてすらすらと頭に入ってくる。あまりに抵抗なく頭に入ってくるので、果たしてそれでいいのかという疑問はあるのだけど。
それはともかく、やはり印象に残ったのは中島さんが一貫して問い続けてきたテーマである現代のヒンドゥー・ナショナリズムに関する記述である。
一読して感じたのは、現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムは、現代中国の(漢族)ナショナリズムともかなり重なり合う点がありそうだ、と言うことだ。特に重要なのは、その中心的な担い手が急速な近代化によって経済力をつけてきた都市部中間層である、という点だろう。こういった急速に工業化を遂げつつある新興国の都市住民は、概して自分達が確実に力をつけつつあるという「自信」や「希望」と共に、社会の変化のスピードがあまりに速いことから来る「不安」や「喪失感」もまた抱えた存在だ、と言ってよさそうだ。また、自分達の存在を正当化する根拠として「歴史」が常に持ち出される点なども中国(あるいは韓国)のナショナリズムと共通しているかもしれない。
しかし、大きく違っている点もある。それはインドの場合何と言っても宗教的な対立がナショナリズムの背景として決定的な役割を果たしているのに対して、中国の場合にはそれがほとんど存在しない点だ。
後述するように、このことは両国のナショナリズムを考える上でかなり大きな意味を持っているように思われる。
さて、ここ1,2年、日本も含めた東アジアにおけるナショナリズムの比較研究というべき議論が盛んに試みられるようになっている。例えば、古田博司『東アジア「反日」トライアングル』ASIN:4166604678 は、東アジアの「反日」を掲げる国家がいずれも儒教の大きな影響下にあることを挙げ、その反日ナショナリズムが儒教特有の「道徳的に劣位なものを貶めて自らが優位に立つ」と言う視点に貫かれている点を指摘している。この視点からすればいち早く儒教文化圏の影響を逃れて近代化を遂げた日本は、これら近代化の過程にある諸国がとらわれている排他的なナショナリズムの罠からは自由である、ということになる。
それに対し高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』ASIN:4862480195、日・中・韓のナショナリズムはいずれも、グローバル化の進展によってそれまで東アジアの多くの国が依拠してきた開発独裁型の経済発展パターンの有効性が崩れる中で、それまでの安定した生活から世界市場の中の剥き出しの競争に放り出された都市型中間層の「不安」が源泉となった「疑似問題」であるという立場をとる。
ここで中島さんの描くインドの状況を考えてみるとどうだろうか。
まず言うまでもなく、インドの文化的な背景には儒教は全く関係がない。にもかかわらず、その近代化の過程において見られるヒンドゥー・ナショナリズムには、その攻撃の対象となる他者(イスラム教徒、西洋文明、マルクス主義者)を、低俗で邪悪なものとして貶め、それによって自らの道徳的立場を高める、と言う姿勢が明らかにみられるように思われる。また、タージマハールは実はヒンドゥーの宮殿だった、という主張など、古田著で儒教文化の特徴とされている歴史の捏造(「偽史」の作成)による自らの存在の正統性の強化、という現象さえみられることに注目すべきである。これらのことは、中韓(朝)のナショナリズムの特徴を主に「儒教」という視点から理解することにどれだけ有効性があるか疑問を投げかけるものだろう。
また、高原著で強調されているような、グローバル化の影響による開発路線の転換とナショナリズムとの関係については、インドにおいてもある程度はその存在を指摘できそうである。しかしながら、インドの場合あくまでも宗教共同体という極めて「伝統的なもの」がそのナショナリズムの核となっていることはやはり注意しておくべきだろう。つまりグローバル化による社会の変化こそが本質であり、ナショナリズムはそこから派生した「疑似問題」である、と言ってしまうにはインドのナショナリズムの背景はあまりに重過ぎるように思えるのだ。
結局のところ、陳腐かもしれないが、現代のアジア諸国におけるナショナリズムを理解するのに従来強調されてきた文化や宗教といった伝統的なものだけをみていたのでは確かに不十分だが、といってそれらの要素をあまりに軽視しすぎるのもまた考え物だ、ということなのではないだろうか。
東アジアのナショナリズムについて語るとき、われわれの議論はつい熱くなってしまいがちである。そんな時、インドの現状に少し目を向けることは、確かに熱くなりすぎた頭を覚ますのに丁度よい役割を果たしてくれる。こんなことを言うと中島さんのようなインドプロパーからは「それは動機が不純だ」と怒られそうだけど。