梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

中国は反日に萌えているか

 中国屋などを生業にしていて一番いかんと思うのは「建国記念の日」というと反射的に10月1日を思い浮かべてしまうことである。2月11日?それって誰が何をした日でしたっけ?

 ・・さて、そんな私にとって(?)、前に書いたように領土問題というのは、個人的にほとんど萌えない話題だし、政府の対応のまずさなどについてはいくらでも論じる人がいるでしょうから、そちらにお任せします。

  ただ、これも盛んに言われることで、中国政府の強硬政府の背景に民衆のナショナリズムの吹き上がりがある、というのはその通りだとは思うが、これを2005年の反日デモの時とと同列に捉えるのは大きな間違いだと思うので、その点だけ指摘しておきたい。

 前回の反日騒ぎの時には、まず2004年に尖閣諸島上陸とか、日本の国連安保理常任理事国反対の署名など一部活動家が反日の声を上げていたのが次第に注目を集め始め、同年夏にサッカーアジア杯のブーイングに代表される第一の盛り上がりを迎える。その時の機運は表面上は沈静化するものの、2005年の反日デモで再びクライマックスを迎え、その後もしばらくは持続されるが、2006年の小泉退陣によりほぼ収束を向かえる。要はこのときの「反日」はかなり長期にわたって続き、しかも何回かのイベント・クライマックスを迎える、という特徴があった。
 今回は基本的には前兆はなく、衝突事件によって突然盛り上がり、船長の釈放・帰国によって急速に収束した。その後も中国政府は日本政府に対し謝罪と賠償を要求するが、日本で報道されたほど世論の支持も盛り上がりもなく、完全に外交上の駆け引きだったことが明らかである。

 というわけでこれだけ見ても、二つの「反日」はまったく質が違うし、そもそも大使館前でデモをするような「常連」を除けば、普通の人々の間に「反日」が盛り上がっているという意識さえ希薄だったたように思える。その辺の一般ピープルの反応を中国情報ブログ、Kinbricks Nowのこの記事はよく伝えている。

 もう一つの前回の「反日」との違いは、衝突事件後公表された人気作家韓寒のネット記事について紹介したこのブログ記事でも触れられているように、愛国的な盛り上がりについてかなりシニカルな態度を意識的にとる(これはもちろん日本を擁護しているわけではない)見解が早くから見られたことだ。そのシニカルさの頂点ともいえるのが、twitterで盛んにRTされた作者不詳の傑作政治ジョーク「尖閣領有権を確かめる31の方法」といえるだろう。
 こういった「愛国」へのシニカルな視線は、5年前の反日の時にも明らかにある程度は存在していたが、インターネットなどでもほとんど表立って語られることはなかったと思う。それが今回はかなり「顔が見える」形で現れてきたのは、一つにはtwitterなどの国内ネット環境から遮断された新しいネットツールの発達したことがあるが、今回は「愛国」あるいは「反日」に対して揶揄する態度を表明することを許容する余地が社会の中に存在していることも大きいように思われる。

 このように、中国政府共産党の姿勢が5年前、いや江沢民時代とまったく変わっていないのに、少なくとも大都市に住む市民の「愛国」に対する意識には確実に変化が生じている。もしこの認識が正しければ、この両者のズレを十分意識する形で、政府の対応を含め今後の日中関係を考えていく、という方向での議論をそろそろ始めてもよいのではないだろうか。

 たとえば、今年度のノーベル平和賞で現在国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を受け、服役中のにいる反体制派知識人、劉暁波氏の受賞がかなり有力視されている
 上述のような、「愛国」に対してシニカルな態度をとっているネチズン(盛んにtwitterをやっている人々)は、劉氏を支持する層とかなり重なっているといってよい。であるとするなら、「劉暁波氏に賞を与えることを中国は警戒している」というときの「中国」とは何か、ということが当然問われてくるだろう。このことは、劉氏が実際に受賞した場合に、日本政府は、あるいは新聞などのメディアはどのような態度を表明するべきなのか?という差し迫った問題として、すぐにも突きつけられることになるだろう。こういったことを真剣になって考えている人々が、果たして現在の民主党政権の中に存在するのだろうか?