公式サイト; http://www.sonypictures.jp/movies/mountainpatrol/index.html
チベットを舞台にした映画はこれまでにも何本も作られているが、欧米人によって作られた作品にはある共通点がある。それはいずれも良くも悪くも「ヒューマニズム」を基調にしているという点だ。それは政治的なメッセージが明確な『セブンイヤーズ・イン・チベット』や『クンドゥン』だけでなく、出演者がチベット語をしゃべり一見かなりリアリズムに近い視点で取られているように見える『キャラバン』(正確には舞台はネパールだが)などにも共通している。
だが、一昨年の東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、今年になりアメリカや日本で相次いで公開が決まった中国映画『ココシリ』はそれらの既存の作品とは全く異なる視点からチベットを描いている。いや、そこには欧米人の監督による作品におけるヒューマニズムに対するはっきりとした批判の姿勢があるといってもいいのではないだろうか。
それは、ちっぽけな人間を飲み込むようなココシリの圧倒的な大自然の過酷さが余すところなく描かれているから、という理由だけではない。もともとこの映画のストーリーはとても単純で、チベットカモシカを乱獲する密猟者の集団を、野生動物を守るという使命に燃えたパトロール隊がひたすら追いかけまくる、というだけなのだが、このパトロール隊というのが、密猟者に負けないくらいとんでもない男たちなのだ。
まずこのパトロール隊、警官でもなければ公務員でもない。あくまでも強烈なリーダーシップを持つ隊長の下にボランティアで集まったいわば自警団である。要するに法的には何の権限も持っていない。にもかかわらず「取調べ」と称しては密猟された毛皮の「運び屋」かも知れないトラックの運転手を車から降ろしていきなりコートを切り裂いたり、逃げようとする密猟者(の手先である農民たち)を猟銃で撃ちまくったり、捕まえた農民にボスの居所を吐かせるために殴る蹴るの拷問を加えたり、まさにやりたい放題である。極めつけはその農民達を、食料が底をついたからという理由で山奥にそのまま放置プレイにするシーンで、俺達を見殺しにする気かと嘆願する農民たちに隊長が残す言葉(うろ覚えだが)が振るっている。「仏様のご加護があれば、お前達は死にやしないさ」。隊長、カッコイイ!…違うって。
欧米人がチベットを描いた映画では、こういうシーンはまずありえないだろう。なにより、こんなシーンを国際的な映画祭で流したら、中国の「法治」はなんて遅れているんだとまた批判を浴びるかもしれない・・などという政治的な配慮が微塵も感じられないところがすばらしい。だってこっちの方がずっとリアリティがあるんだもの。
自警団のリーダーであるリータイはチベット人だが、メンバーにはかなり漢族も混じっている。また、密猟者のグループはほとんど漢族(あるいは回族)であるようだ。そして映画自体が北京から取材に来たジャーナリストの目を通して描かれるため、実際には映画の中のほとんどの会話が漢語で行われている(観客へのサービスの意味もあるだろう)。冒頭、密猟者に殺されたパトロール隊のメンバーを鳥葬で弔うシーンも描かれるが、これには観客の欲望に迎合したような不自然さを感じた。そのほかでは、メンバーたちが出発の前の晩、中国式のカラオケで漢族の小姐と遊ぶシーンが描かれるなど、むしろ日常の生活はかなり漢族化しているのではないかという印象を与える。
作品中、地方政府への批判もさりげなく描かれる。密猟者の手先となっていた老人は、買っていた羊やヤクが(恐らく砂漠化や乱開発のため)食べる草がなくてみんな死んでしまったので生きるために仕方なしに密猟の先棒を担いでいるのだと言い訳する。またこのパトロール隊自体、地元政府から何の援助も受けられず、ほとんど無給状態で働いていると言うことが次第に明らかになる。が、これらは別にチベット特有の問題ではなく、無能で欲の皮だけが突っ張った地元の役人に苦しめられる、というのは現代の中国農村に共通の問題だ。そしてその批判は決して中央政府にまでは及ぶことはない、という原則はあくまでも貫かれている。というわけで、この作品はチベット人と大自然の関わりを描いたと言うより、あくまで「チベットの過酷な自然に生きる人民たち」の物語を描いた作品だと考えたほうがいいのだろう。しかし、そんな物語が不思議と西洋的な基準で「政治的に正しい」映画以上に見るものの胸を打ったりするのだ。
僕は、中国の少数民族をめぐる問題に対し、国際社会が人権問題として関心を持ち、何らかの発言をしていくことをを基本的に正しいと考えている。ただ、西洋的な「人権」「ヒューマニズム」の視点「だけ」で少数民族の問題を考えることには確かに限界もある。『ココシリ』は、そのことを考えさせてくれる優れた作品である。