梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

アイデンティティなるものをめぐって

id:odanakanaoki:20050813より。

センの所説を煎じ詰めると、

コミュニタリアニズムは「アイデンティティ」ばかりを重視し、普遍的な「理性」を軽視する傾向にある
・しかし、アイデンティティは複数かつ重層的なものである
・それらの間での選択をなしうるのは、理性しかありえない
コミュニタリアニズムは、この点を看過している

ということになる。なるほど、まことその通り。

(3)センが批判の対象に措定しているのはコミュニタリアニズムだが、彼の評価と批判は、同様に「アイデンティティ」を重視する思想動向、たとえばポスト・コロニアリズムやポスト・モダニズムに対してもあてはまるだろう。

 基本的に同感なのだが、ポスト・コロニアリズムやポスト・モダニズムが「アイデンティティ」を重視する思想動向だというのはちょっとわかりにくいかもしれない。僕の理解では、これらの思想と「コミュニタリアニズムエスニックやナショナルな同一性を強調する立場)」との違いは、前者が後者のようなベタなアイデンティティの強調を表面上批判する一方で、「いかなるアイデンティティの政治からも(もちろん、「理性的な主体」というアイデンティティも)はみ出さざるを得ない存在」としてマイノリティやサバルタンを位置づけ、そこに彼ら/彼女らのアイデンティティ・ポリティクスの根拠を見出すという、一種の「否定神学」的な戦略を採用していることだろう。

 そうすると、向いている方向性は同じでも、その「順序」が問題になってくるだろう。すなわち、①ベタなアイデンティティ・ポリティクスを展開するコミュニタリアン、を②センのような普遍的な理性を重視する立場、が批判し、さらにそれを③「理性的な主体」というアイデンティティの抑圧性を告発するポスト・コロニアリスト、が批判する、という構図である。もちろん③に対しても、④それ自体が否定神学的な手法によるアイデンティティ・ポリティクスの一種にしか過ぎない、という論法での批判を行うことが可能だろう。

 そこで出てくる疑問は、上記の③と④の対立というのは、果たして①と②の対立よりも「進んだ」ものなのか、あるいはより本質的な論点というのを含んできるのだろうか、という点だ。僕の印象では、どうもそうではないんじゃないか。

 このブログでもすでに何度か書いたように、僕は思想運動としてのポスト・コロニアリズムには大きな疑問をいだいているが、マイノリティが自らのアイデンティティの根拠を植民地時代の(負の)遺産に求め、社会的な告発を行おうとする運動自体を否定的に考えているわけではない。むしろ、そういった③のタイプの思想運動は、結局①のタイプに収斂していかざるを得ないのではないか、ということを問題にしたいのだ。あるいは、こういう言い方もできるだろうか。ポスト・コロニアリズムに否定できない真実が含まれているとしたらそれはとりもなおさずベタなコミュニタリアリズムに否定できない真実が含まれているからに他ならない。二つの真実は見かけは異なってもその本質はほとんど同じものなのだ、と。

 例えば小林よしのりの『ゴーマニズム宣言スペシャル沖縄論』ISBN:4093890552け、近代的な啓蒙・理性主義にとってもっとも手ごわい論敵はやはり①のタイプのベタなコミュニタリアリズムなのではないか、という気がしてしようがないのだが。