梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

デット・デフレーション(続)

 mojimoji氏がペースメーカーになってくれるということなので、それに合わせて書き込めばよいのだが、14日の日記の続きを一応終わらせておこう。まあすでに誰かが指摘したことかもしれないけどそれはご愛嬌ということで。

 さて、僕が『経済学という教養』のなかでちょっと気になったのは稲葉さんがデットデフレーションについて、「もし金融市場の技術が発達して、銀行信用の証券化と正当な価格付けが成立したら、信用の債権価格は市場均衡水準まで下がるはずなので、デフレ発生の根拠は消えてしまう」という批判をしているところだ。最初はなるほど、と思ったのだが、よく考えるとそう簡単にはいかないんじゃないだろうか。そう考える根拠は、相対型の信用取引の際に生じる貸出先の審査費用(情報コスト)が、債権が他人の手に渡るときにはサンクコストになってしまうだろう、という点にある。

 相対的な信用取引を行う際には、貸出先の状況を審査する際の情報コストが必ずかかる。そして、そのコストは、貸付の際の利子払いの中に上乗せされている、と考えるのが常識的だ。例えば、銀行Aが100万円の資金をある企業の年率20%の金利で貸し出すとする。しかし、この場合企業への審査コストとして10万円かかったとすると、実質のリターンは(120−110)/110=9.09%となる。では、この債権が(物価などの条件は同じとして)他の銀行Bに渡るとき、一体いくらの価格で買い取るだろうか。
 銀行Aと同じ9.09%のリターンでよいとして110万円支払うだろうか?いや、その金利でよいならばきっともっと安全な債券などの投資先があるはずだ。新しい債権の買取り手にとって、企業の貸し倒れのリスクが9.09%という低いリターンに見合うほど低いものであるという保障はどこにもない。銀行Aが最初にいい加減に審査を行った貸付を他の銀行に押し付けようとしている可能性もあるからだ。そして、債権のリスクを減らすためにBが自分でもう一度情報収集をやり直そうとすると、やはり10万円ほどのコストがかかってしまう。
 かくして、銀行Aが110万円のコストをかけて行った融資は、市場で売買する際には、まったく「摩擦コスト」がかからなかったとしてもせいぜい100万円の価格しかつかない(買い取り手は20%のリターンを要求する)、ということになる。つまり、銀行Aが最初に行った審査に伴う費用は、市場では回収できない(サンクされている)コストなのだ。 
 今のは物価が不変のケースだったけど、デフレが生じている時でも基本的に事情は変わらないだろう。いや、最初に融資の審査を行った時より企業の客観的なデフォルトの可能性はより高くなっているはずだから、二次市場での価格の下落幅は価格不変の時よりももっと大幅なものになっているだろう。いずれにせよ、このようなサンクコストが存在する場合、いくら完備された債権の市場があったとしても銀行Aは決して自らの債券を売りに出さないだろう。最初にかけた情報コストの分だけ損をしてしまうのが明らかだからだ。
 
 以上の議論で注目してほしいのは、「完全な銀行信用の二次市場」の存在を仮定した場合でも、銀行と企業の間に情報の非対称性があって融資の際情報コストがかかるなら、そしてそのコストが基本的にその企業と銀行の間の取引でしか回収できない(サンクされた)ものであるなら(そしてそれはごく現実的な仮定だ)、そのコストがたとえ大して大きなものでなかったとしてもやはり「債権価格の硬直性」が生じ、デット・デフレーションの原因になる、ということだ。

 まあ、これは政策論争にとってはトリビアな点かもしれないのだが、僕の漠然とした印象として、同じ「市場の不完全性」から出発するニューケインジアンであっても、稲葉さんがまとめたように「不完全な市場は努力次第で完全になる」という立場の人と、「市場はどんなに努力したって不完全なままなのだから、それを前提にして議論をしましょう」という立場の人がいるような気がする。スティグリッツは明らかに後者の代表だ。いや、前者の人も本当はそうは思っていないかもしれないのだが、なにしろ後者の立場をとるとモデル構築(およびそれによる現状分析)がとても困難になりそうなので。で、その「とても困難なこと」にあえて挑戦しようとしたのが例の『新しい金融論』だ、というのが僕のとりあえずの理解だ。

 以上、なにかおかしな点があればご指摘ください。所詮理論経済学については(「帝国」論よりはややましな程度の)素人でしかないので。