梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

『進撃の巨人』と「単一権力社会」

 下のエントリでも少し触れていますが、この度出版することになった拙著の見本が届きました。今週末(6月6日)ぐらいから書店に並び始めるのではないかと思います。編集担当の赤井茂樹さんが太田出版に移ってから開設されたhomo viatorシリーズの、(あの國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』に続く)2冊目の本ということになります。出版社の紹介ページと、目次は以下の通りです。

http://www.ohtabooks.com/publish/2015/06/06102743.html

日中の安全保障上の緊張と、いま復活しつつある脱近代の思想「アジア主義」は無縁でない! 
グローバル資本主義にかえて「脱近代による救済」を訴え、「八紘一宇」や「帝国の復権」が露出する時代に、社会の息苦しさの原因を「外部」に求めない思想と行動の探究。
現代中国経済研究の俊英が、日中・東アジアの現在と未来を語った渾身の論考。

「現在の東アジア情勢において、近代的な価値観の多元性を前提とした問題解決を図ることこそ最重要の課題。しかし、これまで日本が取ってきた「一国近代主義」の限界が次第に露呈しつつあるのと共に、領土問題をはじめとした問題の解決が思うように図れず、一種の膠着状態に陥っているように思います。」(本文より)

【目次】
序論 「近代」の限界と暴力にどう向き合うか(ウェブサイトで無料公開中!)
第一章 烏坎村重慶のあいだ──「一般意志」と公共性をめぐる考察
第二章 左派と右派のあいだ──毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか
第三章 「国家」と「民間」のあいだ──国家資本主義・格差・イノベーション
第四章 日本と中国のあいだ──「近代性」をめぐる考察
あとがき
参考文献

 人気に便乗しやがって!という批判を浴びそうですが、自分では結構気に入っているくだりを「あとがき」から引用しておきます。

 本書のセールスポイントをもう一つあげておきます。社会のゆがみをもたらすもの―たとえば経済格差の拡大やモラルの低下など―を「外部」に求めるのではなく、自らの内部に求める思想や行動を、その政治的立場がどうあれ一貫して肯定してきました。たとえば本書の第二章ではそういった思想を銭理群氏の表現を借りて「民間思潮」と呼び、そこに日中相互の排外的なナショナリズムを乗り越えるカギがあるのではないか、と述べています。ただ、こういった社会のゆがみをもたらすものを決して「外部」に求めない、という姿勢への共感あるいは明確な支持表明は、東アジアに生きる私たちにとって、案外より身近なところに見出すことができるのかもしれません。
 本書の執筆中に私がひそかにハマっていたのが、大ヒットマンガ『進撃の巨人』です。ご存じの方も多いと思いますが、ごく簡単に物語の枠組みだけを説明しておきます。物語の舞台となるのは、突然現れた巨人によって人類の大半が食いつくされた世界です。生き残った人類は「ウォール・マリア」、「ウォール・ローゼ」、「ウォール・シーナ」という巨大な三重の城壁の内側に生活圏を確保することで、辛うじてその命脈を保ちます。しかし、ある時「超大型巨人」の登場によって最も外側に位置する壁(ウォール・マリア)が破られることで、人類は再びパニックに陥り、次第に居住空間を狭められていきます。
 壮大なスケールと細部までよく練られたストーリーを持つ作品として、『進撃の巨人』は、日本でのマンガ連載やアニメ放映とほぼ同時に香港・台湾を含む中華圏にも伝わり、爆発的な人気を呼びおこしました。たとえば、本書でも取り上げた二〇一四年の香港の雨傘運動の際に、中国政府による香港社会への干渉・支配強化のアイコンとして作品の中の「巨人」が描かれている、と日本のメディアでも紹介されたことは多くの方がご記憶かと思います。すなわち、人類=デモに繰り出す香港人、壁=香港の商業資本、巨人=中国政府や香港を訪れる中国人観光客、ととらえられるのではないか、というわけです。
 しかし、現在一六巻まで出ているこのマンガをある程度読み進めていけば明らかなように、このようなとらえ方は作品理解としてきわめて不十分なものです。物語が進むにつれて、人類にとって「絶対悪」であるかにみえた巨人は、実は人間と互いに入れ替え可能な存在であるということが明らかになるからです。さらに、そのような巨人と人間との関係についての知識を、一部の権力者だけが把握しており、それを市民に対して隠すことで壁の中の秩序が保たれていること、その知の独占(=権力化と特権化)に反抗しようとした者たちは徹底的に排除されてきたこと、なども次第に明らかになっていきます。かくして物語の構図は、絶対悪たる巨人に人間たちが立ち向かうという単純なものから、「巨人に関する知識を独占して既存の秩序を維持しようとする者たち」と、「巨人に関する知識を得ることにより、自分たちがどう生きるべきなのかを見定めようとする者たち」、つまり人間同士の対立へと変化していきます。主人公エレンたち調査兵団の若者は、あるときから社会に絶望をもたらしているのが自分たちにとって「外部」の存在である巨人ではなく、むしろそれに対する人間たちの「姿勢」であることに気がつき、そのために既存の権力と激しく衝突するようになります。
 ・・・これ以上内容に踏み込むのは差し控えますが、こんなふうに作品の梗概を述べれば、本書執筆中私がなぜ『進撃の巨人』にハマっていったのか、ということがわかっていただけるでしょうか。このマンガが日本だけではなく中華圏でも熱狂的にファンを増やしているのは、たしかに作品のテイストが現代の閉塞感にマッチしているがゆえ、という側面もあるでしょう。ただ、それだけではなく、この作品がそれこそ「単一権力社会」における支配の本質と、それに対する若者たちの反抗という構図を余すところなく描いているからではないか、というのが私のこの作品についての(希望的な観測も込めた)「深読み」です。

 ・・以上の文章を読んで、少しでも気になった方は書店で手にとって頂けるとうれしいです。よろしく。