梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

「一般意志2.0」と「公共性」をめぐって

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

 さて、すでにかなり話題になったこの本について、従来からの「公共性」への問題関心に引きつけて自分なりに考えをめぐらせてみたので、とりあえずまとめてみたい。その前に、この本については既に多くの人がネットで論じており、たとえば山下ゆさんによるまとめなどはわかりやすく、僕としても大筋では異論がないので、まず以下に引用しておこう。

http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20111212/p1

 まず、ルソーが一般意志を導くときにコミュニケーションの役割を否定していることに注目します。

 第4章で検討されているように、これはかなり大胆な考えです。アーレントあるいはハーバーマスといった人びとによれば政治とはまずコミュニケーションであり、この本で提示されている「コミュニケーションなき政治」というのは、「政治的行為そのもの」を否定するようなものです。

 「どうやらその試みはあまりにも常識はずれのようなのである」(75p)と東浩紀は自ら書いていますが、政治学、あるいは社会学の本を読んできた人からすると、この考えはまさに「常識はずれ」でしょう。

 その上で、ルソーの求めていたのは「拍手と喝采」のようなものではなく、むしろフロイト流の無意識だというのです。

 国民の中には意識的に政治に関わっている人もいればそうでない人もいます。基本的に今の政治システムでは熱心に政治に関わろうとする人たちだけの意見が政治の場に届くことになっています。けれども、声を挙げない人も政治に関して何がしかの思いを抱くことはあるわけですし、その行動や言論には何がしかの政治的な欲求が隠れているケースがあるはずです。

 東浩紀は、そうした政治的な「無意識」がもし可視化出来るようになるならば、それこそが一般意志、あるいはアップデートされた「一般意志2.0」ではないかと言うのです。

 山下ゆさんがまとめているように、ルソーとアレントの政治思想の間における鋭い対立関係が、この本を読み解く重要な鍵になるだろう。まず、よく知られているように、人間の「複数性」の尊重を公的空間における政治活動の基礎に置くアレントの立場からは、人民の「生活への欲望」に左右されるルソーの「一般意志」は、全体主義的な暴走をもたらす危険な発想として警戒されることになる。

 一方でアレントは、彼女自身が「公共的な政治活動」実現の前提条件としてとらえていた社会問題の解決−今日的な表現を用いれば社会権の実現ーがどのようになされるか、という点に対して具体的な考察を行っていない。これは、アレントの政治思想が「社会問題」の解決をいわば棚上げしていることを意味しており、その点で、貧困層への「同情」を一般意思形成の重要な構成要素と考えるルソー的な立場からは、厳しく批判されることになるだろう。

 しかし、このことは両者の思想が単純に対立するのではなく、むしろ補完関係にある、ということを示唆するものでもある。

 もちろん、東もこの両者の思想の緊張をはらむ補完関係については自覚的である。そのため、彼はルソーの名のもとにコミュニケーションを介在しない、いわばグーグル=ニコ動的な「一般意志2.0」の可能性を論じると同時に、その「暴走」を押さえるという役割を旧来の(アレントハーバーマス的な)「公共性」に支えられた「一般意志1.0」に求めている。そして、新しいタイプの「国家」(政府2.0)は、その二つの一般意志の間でバランスを取るインターフェイスのような役割を与えられている(下図参照)。すなわち、これからの政府はルソーとアーレント、二人の思想家によって提示された「政治」と「社会」の緊張関係を認識しつつ相互にチェックを与えあうような存在であるべきだ、というわけだ。


当該書139ページより。

 ・・しかし、現実はそんな風にうまくいくものだろうか。そこには、なにか決定的に抜け落ちた要素があるのではないだろうか。


 ここで再びアレントの議論に注目しよう。彼女は、『暴力について』『革命について』といった著作の中で再三、小規模な評議会(レーテ、コミューン)の中で行われた政治を、人間の「複数性」が尊重される「活動」のモデルとして称揚する発言を行っている。このような革命評議員会は、ギリシャに於けるポリス政治と同じく、賃労働から解放され一定程度の教養=コモンセンスを身につけた者が参加資格を持つ結社(アソシエーション)的なものだ、として考えることができるだろう。

 一般に、彼女は、アメリカ革命がそうであったように、「社会問題」とは切り離された「公的な領域」が成立しており、そこで「複数性」が尊重される政治が行われることが、自由の創設としての「革命」が成立する条件である、という主張を行ったと考えられている。しかし、これとはやや異なった、いわば逆向きの解釈もできるのではないだろうか。つまり、(ハーバーマスの言うような「公共性の構造転換」を経た)現代においては、従来の社会システムが揺らぎ、「革命」あるいはそれに類する権力の空白が生じることこそが、「社会問題」とは切り離された「公的な領域」における政治が成立する条件である、というように。
 より踏み込んだ言い方をするならば、彼女のいう「公共性」「公的な領域」とは、紛れもなく社会システムにとっての「内部」から出てきたものでありながら、しかし完全に内部に包括されてしまわず、潜在的な「外部」として社会システムを揺さぶるような、そのような両義的な緊張感を持った存在としてとらえるべきなのではないだろうか。既存の社会システムに絡み撮られてしまっては、お互いの複数性を尊重しあい「自由の創設」を行うという、「ポリス的な政治」を行うことは不可能だからである。

 結局のところ、アレントはそもそも安定したシステムのもとで「熟慮民主主義」の実現を目指した「平時の思想家」ではないのだと思う。彼女はあくまでも「戦争と革命の時代」の思想家であり、むしろ既存の近代的なシステムの行き詰まりが顕在化したときに、あり得べき社会と政治の関係について、道筋を示した、という点に彼女の思想の真骨頂がある、ということを常に留意しておくべきである。


 ・・・さて、このようなアレントの思想と対比させたとき、あるいは、旧体制による支配への対抗から独自の社会契約論を練り上げたルソーと比較しても、東の展開する議論は基本的に平時における国家の運営をよりスムースに、ストレスなしに行うための技法の洗練、という意味合いを抜け出るものではないように思われる。それは、「政府2.0」によっていとも簡単に「一般意志2.0」と接合されてしまう「小さな公共性」の扱いに現れている(上図参照)。

 上図に描かれた東の「未来社会」についての構想からは、アレントの思想に内包されていた「公共性」と社会システムの間の緊張関係はほとんどみられない、といってよい。また、一般意志2.0と小さな公共性との間で政府2.0がバランスをとって前者の暴走を食い止めよう、というのが東なりのチェック・アンド・バランスだが、その政府2.0が前者に一方的に肩入れし、後者を生殺しにしないという保証はどこにもない。彼の議論の中にある「公共性」は、恐らくはあらかじめ政府2.0によってその存在が織り込み済みにされており、現存するシステムの外部にあるものではない、と考えられるからである。

 このような東の議論は、平時を超えた危機的状況の事態に対しては−いみじくも本人が本書が3.11以前に書かれたという限界を背負っていることを認めているように−射程が届いていないと言わざるを得ないが、それは恐らくこのような「公共性」の位置づけの甘さによるものではないか、と僕は考えている。

 本書に対する僕のもう一つの不満は、それが中国のような新興国、多くの非西洋国家の現実に届いていない、という点にある。理由はいうまでもない。それらの「主権在民」自体が自明のものでもなければ、アレントのいう「社会問題」も解決されてるとはいえない国々においては、まさに民主制に代表されるような近代(西洋)的な社会システムが暴力的衝突なしに導入されるかどうかということ自体が大きな問題となっている*1。そこでは、自由の創設を準備する「公共性」とは、政権にとっても市民の側にとっても、極めて危険で取り扱いに注意を要する、それゆえにとてつもない重要性を持った概念にならざるを得ないからである。

 僕は、中国を始めとした近隣諸国との間で、このような危険性をはらむ「公共性」の問題をどのように考えていけばよいのか、という点をめぐって、まともな議論がまだ始まってさえいない、という現状を忘れるべきではないと思う。にもかかわらず、日本の言論界をリードする立場にあるはずの人々が、このようなアジアの状況に目を向けることなく、あたかも「公共性」や「熟慮民主主義」をめぐる議論はもう古い、と言わんばかりの議論を展開しているのをみると、正直なところかなりげんなりしてしまう。
 個人的には、そんな表層的な流行の議論を横目で見ながら、「公共性」の概念を東アジアで「共通認識」に近いものにものに鍛え上げて行くにはどうしたらいいのか、といった課題を考え抜く方に賭けたい、という気がしている。それは結果が出るまでにかなり気の長い「賭け」になりそうだが。

*1:例えば今年初めに米国に亡命して記者会見を行った、中国の異論派作家である余傑氏の出国声明を参照せよ。