昨日のエントリの情報をtwitterで流したところ、東浩紀(@hazuma)さんご本人の目にとまってツイートされ、おかげで多くの方々の目に触れたようです。ないものねだり、というか理不尽な噛みつき方をしたにもかかわらず大人の対応をして下さった東さん、どうもありがとうございます。
さて、昨日のエントリで「公共性」の問題をどのように考えていけばよいのか、という点をめぐって、まともな議論がまだ始まってさえいない」と、日本の思想界の人々への不満を露わにしましたが、「まともな議論がまだ始まってさえいない」ことの責任の半分は中国研究者の方にもあることは十分自覚しているつもりです。たとえば、17年前に出たこの本。
- 作者: 溝口雄三
- 出版社/メーカー: 研文出版
- 発売日: 1995/04
- メディア: 単行本
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中国の人々が「公」あるいは「公共」という言葉に込める思いと、アレントやハーバマスの議論などででてくる「公共性」とのズレを考える上では上記の溝口さんの本は未だに必読のテキストだと思うんですが、その後こういう問題意識に立って議論を深めておられる方はいらっしゃるんでしょうか。
昨年末ネット上で大きな話題になった烏坎村の事件にしても、欧米メディアではまさにこれを「市民的公共性」の問題としてとらえ、Wukan Communeとか呼んだりしているようなんですが、どうも根本的なところで勘違いしている、と思うんですよね。村人達はむしろ溝口さんが上の本で強調している「つながりの公」(「公平」の「公」に近い)という概念に突き動かされているという方がずっと近いと思う。
この辺はまだ自分でもうまく消化できていないので(もっと他に適任の人がいるだろう、という気もするわけですが)、しばらくして考えがまとまったらまたポツポツと書いてみたいと思います。