梶ピエールのブログ

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大きな政府/小さな政府の対立を超えて


実践 行動経済学

実践 行動経済学

 邦訳のタイトルはミスリーディングだと思う。確かに前半は行動経済学の説明であるが、むしろそれはツールとしての必要からなされていて、主眼は著者の政治的立場である「リバタリアンパターナリズム」の内容とその実践に関する説明の方にある。そしてそこにこそ、小さな政府と大きな政府という古典的な対立では捉えられない、現代社会の変化をとらえた本書の重要な問題提起があると思う。

 例えば、金融危機の後、もっとも必要なのは適切な金融市場の規制であり、ケインズ的な、すなわち裁量的な財政金融政策を安易に復活させるのは誤りだ、という主張が「小さい政府」の支持者から唱えられた。しかし、僕はこれに違和感を感じた。小さい政府論者は、そもそも政府の能力に疑問を感じて裁量的な財政金融政策に批判的であったはずだ。しかし、現在のようにファイナンスの技術が日々発達している状況では、市場をうまく機能させるための「適切な規制」の内容も日々刻々と変化する。ということは、適切な規制の実施はある程度裁量的なものにならざるを得ないのではないだろうか。政府の能力に懐疑的であるために裁量的な財政金融政策に批判的である人々が、それよりも高い能力を政府に期待して「適切な規制」を求めるのはおかしくはないだろうか?
 本書で展開されるリバタリアンパターナリズムに関する議論は、その疑問にある程度答えてくれるような気がする。

 たとえば、学校の食堂カフェテリアのメニューの並び方は、学生たちの食事の選択に決定的な影響を与える。言うまでもなく、最初におかれたメニューほど選ばれやすいからだ。このメニューの並べ方を各種の政府による制度設計に置き換えてみれば、それはやはり必ず人々の行動に影響を与える。どうせならば、選んだメニューが子どもたちの健康を促進させるよう並べるべきではないのか?それがパターナリスティックな介入であり、「選択の自由」を奪うからといって、最初から全くのランダムにメニューを並べるべきだ、と主張するのはばかげているのではないか?


 このような議論をするとき、「エコノ(経済人)」と「ヒューマン(普通の人)」の区別が決定的に重要である。一言で言ってヒューマンにとって「選択の自由」はそれほどありがたいものではない。ヒューマンが自由に振舞うとき、かならず感情やふいんき、周りの人々の決定に左右される。カフェテリアでおいしそうだが高カロリーのメニューが最初に並べられれば、ついそれを手にとってしまう。その結果、時に自分にとって不利な選択をする。「エコノ」しかいなければ確かに小さい政府が望ましいが、ヒューマンが圧倒的多数を占める状況ではそうではないのだ。この点において、本書はエコノを前提として選択の自由の重要性を説いたミルトン・フリードマンを痛烈に批判する。

 ここまでは、本書の立場はヒューマンの限定的な合理性ゆえに「大きな政府」を支持する立場(例えばアカロフスティグリッツなど)と同じである。しかし、そこで政府がなすべきことは、直接的な所得の再分配や市場にゆがみを与える規制でなどではなく、あくまでも食堂のメニューの並べ替えのようなもの、つまりアーキテクチャ設計によってヒューマンによりよい選択のインセンティヴを与えること(=ナッジ)で実現しようというのが、リバタリアンパターナリズムの立場である。そしてその制度設計には、従来の新古典派経済学ではなく、行動経済学こそが重要なツールとなる。

 しかし、ちょっと考えればわかることだが、ヒューマンを望ましい方向に誘導するアーキテクチャの設計には高度な能力を必要とする。だからこそそれはパターナリズムの名で呼ばれるのだ。高度に発達した金融市場の「より適切な規制」を説く立場は、そもそも政府に「ほっておいてくれ!」と主張するフリードマン流の小さな政府論の立場からは逸脱しており、むしろリバタリアンパターナリズムに近づきつつある―そう考えれば僕の当初に抱いていた違和感はかなり解消される。


 ここで重要な点が二つある。一つは、望ましいアーキテクチャ、ナッジの設定に当たっては政府部門だけではなく、民間部門も積極的に参画することが想定されている、ということだ。政府と民間を含めたベスト・アンドブライテストがアーキテクチャを書き換えていく、大衆はその仕切られたゲームの中で選択の自由を謳歌する、そんなイメージだろうか。もう一つ重要なのは、どのような選択アーキテクチャーを採用するか、によってこれまでの「大きな政府」と「小さな政府」の対立が、ある程度リバタリアンパターナリズムの内部の差異に解消されてしまう、ということだ。


 その上で、問題点が恐らく二つある。一つ目は、本当に望ましいアーキテクチャを設計できるだけの人材をうまく調達できる仕組みを、政府部門であれ民間部門であれ持つことができるのか、ということである。もう一つは、かりにそれができたとして、アーキテクチャの設計から排除され、自らは導かれるだけになった人々が、そのこと自体に不満を漏らすことはないかのか、ということだ。本当に重要な決定から排除されているということに気づいた人々が、パターナリズムに対する「理由なき反抗」を起こさないという保証はあるだろうか。
 いずれにせよ、ちょっと考えただけでもリバタリアンパターナリズムは突き詰めていくと、民主主義の根幹に触れるような問題を含んでいるといえそうだ。「民意の反映であればたとえ愚かな選択であっても受け入れる」のが民主主義の精神であるとするなら、リバタリアンパターナリズムは明らかにそれとは相容れない契機を持つからだ。そんな点からも、本書は小さな政府/大きな政府という対立を超えて、今後の社会にとっての重要な問題を提起している、という感想を持った。