梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

ハイエクの「自生的秩序」と中国経済

 以下の文章はこの夏行われた大阪大学のフォーラムで行った報告に対するコメントへのリプライとしてまとめたものです。上の内容と関連性があるような気がしますので、ここで公開しておきます。

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 (中略)さて、ハイエクの「自生的秩序」の概念を考える上で欠かすことができないのが、1930年代にハイエク、それにミーゼスといったいわゆるオーストリア学派の経済学者とオスカー・ランゲらの間で交わされたいわゆる「社会主義計算論争」である。
 この論争については既にいくつもの研究論文や解説書が存在しているので、詳しい説明はそれらに譲りたい。ただ、ここで重要なのは、西部忠が指摘するように、中央集権的な社会主義計画経済において、意思決定が「分権的」な市場経済と同じような効率的な資源配分が可能だ、と主張する立場(ランゲ)と、その可能性を否定する立場(ミーゼス・ハイエク)との論争を通じて、次第に両者が依拠する「市場像」の違いが次第に明らかになっていったという点である(西部、1996)。

 西部が明らかにしている通り、ランゲらが提示した、中央計画当局による需給調整モデルの基礎をなしていたのは、一般的には「分権」的な市場経済のモデルとされているワルラス型の一般均衡モデルであった。ランゲらの構想する「市場社会主義」のモデルの理論構造が、ワルラス型市場における「せり人」と同じように、計画当局が「試行錯誤過程」に基づいた需給調整機能を担うことによって一般均衡が達成する、というものだったためである。これに対しハイエクは、計画当局による価格調整の実行能力に疑問を呈するだけではなく、以下のようなワルラス型の市場とは異なる市場像を、より現実の市場競争に近似的なモデルとして提示することで、ランゲらに対抗していったのである。
 すなわちハイエクは、現実の市場競争を、ワルラスの想定していたように、多数で同質性の高い経済主体が、いくつかの不変の経済的条件の制約のもとで、価格のみを指標として行動する、とは考えなかった。むしろ、互いに異質な経済主体が、状況に応じて不断に変化する経済的条件の下で、たがいに独占的な利潤の獲得を目指すという「ライバル競争的」な市場経済のイメージを構想した。そこでは、従来のワルラス型の一般均衡モデルでは考慮されることのなかった経済主体のインセンティヴの問題、および競争を通じた情報(知識)の獲得、という問題意識が、明確に示されていたのである。
 すなわち、ハイエクによれば、現実の市場競争における経済主体は、はじめからどの財の市場においても共通するような普遍的な情報(知識)を与えられ、その下で利益の最大化を図るのではない。経済競争において有用な知識は、個々の財の取引において固有な意味を持つ局所的なものであり、各経済主体はそのような知識を実際の競争に参加することを通じて初めて入手する。また、各経済主体は、そのような局所的な知識を獲得することによって得られる「独占的な」利益をインセンティヴとして競争に参加している、というのがハイエクの描いた市場競争のイメージである。
 一方、塩沢(1997)は以上のような市場競争のイメージを「自己組織系」という用語を用いて理解している。ここで強調しておきたいのは、本論で述べてきたような「影の銀行」「地方融資プラットフォーム」「構造化された不確実性」といった中国の「意図せざる市場秩序」の形成のプロセスが、民間企業や地方政府といったアクターの利潤獲得のインセンティヴと、そのための「局所的な情報」の獲得と利用のプロセスを含んでいるという点で、すぐれて「自己組織的な」市場秩序としての性質を持っている、ということである。
 ただし、(中略)中国における市場秩序については、「国家」との関係を抜きにそれを考えることはできない。そもそも、独特の「自生的秩序の概念」に支えられたハイエクの経済思想は、国家=政府による市場秩序の設計を強く否定するものであった。しかし、中国の場合は、自生的な市場秩序が全く「国家」とは無関係なところに形成されるというわけではなく、その出発点において、政府(国家)による制度設計が重要な役割を果たすところにその特徴がある。国家による制度設計の意図によって変化する市場経済をめぐる条件の変化のいわば「裏をかく」形で、企業や地方政府が局所的な情報を利用しつつ、結果として当初国家が意図したものとはかなり異なったシステムが成立する、というのが、本論で取り上げたいくつかの「意図せざる市場秩序」のケースである。
 すなわち、「自生的な秩序形成」が、まったく何もないところに生じるのではなく、常に「国家による制度設計」との緊張関係の中から生まれてくる、というところに、中国における市場秩序の特徴があるのではないだろうか。

 さて、このような「国家による制度設計」と「自生的な秩序形成」との緊張関係は、改革開放初期の華南地域における「経済特区」の経験においてもみることができる。
 1980年代初頭、広東省深セン市などに設けられた経済特区で盛んに行われていたのは、生産設備や原材料が香港などから免税で輸入され、加工された上で完成品として輸出される「来料加工」貿易であった。このような来料加工はあくまで「貿易」であり、直接投資ではないところにその特徴があった。すなわち、製品の加工を行う海外メーカーにとっては現地で法人登録をする必要がなく、極めてリスクの低い海外進出が可能になっていた。もっとも、製品の国内販売はできないというのが建前だったが、それも実際には香港を経由した再輸出や、「転廠」と呼ばれる書類の上での輸出手続きを通じて、最終的には国内販売が可能になるという「抜け道」も存在した。
 リーマンショック後の2009年になると、当時の広東省書記であった汪洋氏によって加工貿易から知識集約的な産業へ、という産業高度化の方針が明確にされ、来料加工貿易への免税処置も解消された。これを受けてかつての来料加工工場も相次いで法人化するようになっている。それに伴い、賃金高騰を受け苦しい経営を強いられている労働集約的な企業が相次いで「淘汰」される、という事態も生じている。しかし、輸出業者が将来の人民元相場の上昇を見越して輸出を過大に申告し、大量のホットマネーが流れこむ温床になるなど、中央の管理が及ばないある種の「ゆるさ」が華南地域の特徴であることは現在も変わっていない。
 総じて言えば、かつての経済特区を中心とする華南地域では、政府の描いた青写真の「隙間」を縫う形で、いわば下からの「自生的な秩序」を生み出し、それが地域のダイナミズムを支えてきたのだといえよう。
 一方、2013年10月1日、上海市自由貿易試験区(以下、「試験区」)が鳴り物入りでスタートした。金融・サービスの本格的な自由化を目指したこの試験区は、構想時点から李克強首相の強いイニシアティブの下で進められてきたと伝えられている。
 1980年代の華南地域における経済特区に比べて、上海の自由貿易試験区は、はじめから国の政策的な関与が強く、経済の「自由化」を上から設計しようという姿勢が目立つように思われる。試験区のスタートにあたって、外資の出資比率規制など、190項目にわたる禁止・制限リストが公表されたこともその印象を強くするものだった。中国が政治主導の国家であることは誰もが認めることであり、したがって「自由化」も国家の強いイニシアティブで行われざるを得ないことは言うまでもない。ただ、それが成功するかどうかのカギは、かつての経済特区にみられるように、政府がある程度のところで設計主義的な姿勢を放棄し「自生的な秩序」の形成を許容するかどうかにあるのではないだろうか。いずれにせよ、「国家による制度設計」と「自生的な秩序形成」との緊張関係に注目していくことが、今後の中国経済の行く末を占う上での、一つの重要なカギになりそうである。

参考文献:
西部忠(1996)『市場像の系譜学』東洋経済新報社
塩沢由典(1997)『複雑系経済学入門』生産性出版社