前回のエントリで取り上げた、センのNYRの論説に対しするイースタリーの「マオイズムへのノスタルジア」という批判はフェアなものではない。センの主張を評価するには、それが彼の従来からの「貧困」「飢餓」「飢饉」に関する独自の見解(権原アプローチ)に接合される形で展開されている、ということを理解しなければならない。
ただし、NYRの記事だけからは確かにその点はわかりにくい。そこで参考になるのが翻訳も出ている『貧困と飢饉』、およびその巻末に掲載されている1991年の講演「飢餓撲滅のための公共行動」であろう。
- 作者: アマルティアセン,Amartya Sen,黒崎卓,山崎幸治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/03/22
- メディア: 単行本
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そこでセンは、飢餓・飢饉を「権原の失敗」として捉えるべきだ、という視点を明確に打ち出している。権原はentitlementのこなれない訳語だが、「各人が正当な権利のもとに手に入れることのできる財の集合」といった感じか。重要なのはこれが所得概念とイコールではない点だ。たとえば、一定のベーシック・インカムが正当なものとして認められている社会では、たとえ所得がゼロである個人も一定の権原を有しており、したがって飢餓状態に陥る心配はないということになる。
センによれば、飢饉=「権原の失敗」をもたらす原因にはいくつかのものが考えられる。経済成長の停滞はもちろんその最も重要なものだが、そのほかにも政府の適切な介入や社会保障制度の欠如、紛争などの社会不安、民主主義的な政治制度や自由な報道の欠如などによっても「権原の失敗」はもたらされうる。
なかでも、1950年代から60年代にかけてのインドと中国の例を挙げながら、「慢性的な栄養失調」と「飢饉」がどのような「権原の失敗」によってもたらされるかを論じた議論は有名である。同時代を通じて、中国はインドに比べ慢性的な栄養失調の問題に関して目覚しい改善が見られたにもかかわらず、インドではついぞ生じなかったような3000万人以上の規模の餓死者を出す悲惨な大飢饉を起こしてしまった。このことは、インドでは「社会保障制度の整備」という点において「権原の失敗」が生じていたのに対し、中国では「民主主義的な政治制度や自由な報道の確立」という点においてそれが生じていたことを示している。
このように考えれば、「大量の餓死者や政治的迫害者を出した毛沢東時代の中国を擁護するのか」という視点からのイースタリーの批判は、「ためにする」ものであり、生産的なものではないことは明らかである(上記のような権原アプローチの議論を彼がわきまえていないはずはないのだが)。そのようなことはセンの議論に最初から織り込み済みであるからだ。
センの問いかけは、毛沢東時代に比べてはるかに生産力が伸び、一定程度の自由も手にしたはずの改革開放後の中国において、医療サービスの利用という点ではむしろ「権原の失敗」が新たに生じ、ごく最近までそれが改善される兆しさえなかったのはなぜか、というものである。それは、もちろん先進国における「豊かさの一方での貧困・飢えの可能性」という現象にもそのまま投げかけられるものである。その意味では、昨今の新自由主義批判ブームに安易に乗った市場経済批判として、単純に片付けてよいものでないことは確かであろう*1。