梶ピエールのブログ

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マオの時代のプレカリアート

 少し前だが、現在の中国社会における「臨時工」という存在の位置づけ、そして、例の餃子事件を始め、最近の中国においては何か社会的事件が起きるたびに「臨時工のやったこと」で片付けられてしまう風潮について、ふるまいよしこさんが次のようなとても興味深い記事を書いていた。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report4_1994.htmlより

日本における毒ギョーザ事件報道でも、逮捕された呂月庭容疑者(蛇足だが、中国語的にはとてもきれいな名前だ)が犯行に及んだ理由について、「勤務条件への不満」や「正社員になれなかった」などという「臨時工であることの悔しさ」が全面的に強調されている。それはきっと中国側から伝えられた詳細をそのまま記事にするしかなかったのだろうが、「臨時工」という漢字の言葉が持つ意味があまり分からない日本の読者にとっては、分かったような分からないような、判断に困る表現であることは間違いない。

そうやって検索の結果に並ぶ記事を読めば読むほど、「臨時工」が本人の意思に関わらず、いや本人の意志の届かないところで非常に体よく使われる身分であることがよく分かる。そしてそれはトカゲのしっぽのように切り離されると、すでに元の勤務先とは何の関係もないかのような扱われ方だ。そこには社会主義体制華やか成りし頃、人々が国の手配で「単位」と呼ばれる機関で働き、衣食住すべてに至るまでその「単位」に頼り切って暮らすことが常識だった時代の意識が見え隠れする。
 
 というのも当時は「臨時工」などいなかった。いや、もしいたとしても、それは「単位」という、国が決めたタテ型管理体制に属さない、あるいはそこからはじき出された、あぶれ者、流浪者、身元不明者、さらに言えば不審人物と同義語だった。雇用機関はだから今も、事件が起こると、「臨時工」を最大限に利用するのである。

 この問題はいくつかの角度から考えることが可能だろう。たとえば、デヴィッド・ハーベイのように、トウ小平時代以降の中国をネオ・リベラリズムまっしぐらの道を歩むものとしてとらえる論者ならば、このような「臨時工」をめぐる社会のゆがみは、まさにネオリベ化の進行による労働者の基本的権利の剥奪の結果に他ならない、と結論付けることだろう。しかし、日本の実証的な中国研究の蓄積は、そのような見方が浅薄なものにすぎないことを示している。



  毛沢東が君臨した、まさに「社会主義華やか成りし頃」に青年期を送った著者による社会主義中国研究の集大成とも言うべきこの本は、現代の「臨時工」をめぐる問題を深く知る上でも必読の研究書である。

 本書によれば、毛沢東時代の中国は、建国期から余剰労働力の解消・失業問題の解決が重要な政策課題として存在していた。これは、厳しい国際環境の中で建国を迎えた中国が、国防の必要性などから比較優位を無視した資本集約的な重化学工業の建設を優先したため、工業部門では慢性的に労働力の余剰が生まれがちになるという背景を抱えていたからである。周知のように1950年代に農業の集団化が進められるに伴い中国では厳格な戸籍制度がしかれ、農村から都市への流入には非常に高いハードルが設けられるが、これも一つには都市の慢性的な人員余剰をこれ以上悪化させないようにしよう、という配慮が働いていた。

 そもそも、中国の「計画経済」とは、第一次五ヶ年計画を除いて、ただの一度もまともに機能したことがなかった。また、計画経済の各種財の需給は「物財バランス法」により図られるが、中国の計画当局は「お手本」としたソ連と比べても、非常に少ない品目の財についてしか物財バランス表を作ることができなかった。

 このような貧弱な能力しか持たない「計画当局」による「指令経済」の実施は、あるときは生産要素の深刻な余剰が、そしてあるときは深刻な不足が生じる、という状況となって現れた。 そして、そのバッファーの役割を担わされたのが、当時の社会主義経済における「単位」の保護からはみ出た季節労働者・日雇い労働者などの「臨時工」に他ならない。その多くが農村からの流入者・あるいは都市の「ルンペン・プロレタリアート」出身であったこれら「臨時工」の割合は、多い時期には都市工業労働者全体の約10%、水利・建設部門に限っては40%以上に達していたといわれる。

 たとえば大躍進のような政治運動により、いったん大増産の号令がかかると、たちまち経済は供給不足の状況に陥り、都市の失業問題は一気に解消されただけではなく、こういった臨時工もいったんは固定工の身分を与えられた。これは、計画当局の機能不全を補うために投資行動の権限を委譲された地方政府が、生産ノルマを達成するため競って「やみくもな投入増大」をもたらすという現象が生じたためである。

 しかし、大躍進が失敗に終わるとその後の経済調整期では、社会保障負担の大きい「固定工」を抱え込みすぎた国有企業の負担を軽くするため、むしろ「固定工の臨時工化」をおこない、労働市場流動性を高めるという大きな政策の転換が行われた。それを主導したのが、「やみくもな生産増大」と固定工の増加によって国家財政の負担が増大し、国家の基盤を揺るがすことを恐れた劉少奇ら実権派にほかならない。

 一般には共産党内の権力闘争という単純な理解がされがちな文化大革命だが、実際にはその背景に当時の社会主義社会にひそむ様々な格差や矛盾の存在があり、それが暴力的に形で噴出したものであることが明らかになりつつある。その矛盾のうち無視できないものの一つが、体制にとって都合のよいバッファーとして一貫して不安定な立場におかれてきた臨時工による待遇改善の要求、そしてそれを実現しようとしない劉少奇ら実権派やテクノクラートたちにむけたルサンチマンであった。

 この構図は、日本に住むわれわれにとっても親しいものではないか?すなわち、大躍進後に劉少奇の採った政策とは、実は小泉政権のときに行われた派遣労働の規制緩和に比せられるものなのではないだろうか?そしてその後彼が都市の大衆たちから受けた激しい憎悪は、その規模はまるで比べ物にならないとしても、例えば「派遣切り」問題が表面化したときに竹中平蔵に投げつけられた批判と、少なくとも同じベクトルのものであったと言えるのではないだろうか?もしそうだとしたら、イデオロギー的にはその最盛期にあったときでさえ、現在のネオリベ化した社会におけるのと同様な底辺労働者の「疎外」をもたらしてしまう「社会主義」体制とはいったいなんだったのであろうか?

 このように、過去そして現在における中国の「臨時工」をめぐる問題は、社会主義市場経済、そして新自由主義と「労働」との関係を考える上で、格好の材料を提供してくれるのである。