梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

メモ(+コメント)

 下のエントリに関連して、大沼保昭人権、国家、文明―普遍主義的人権観から文際的人権観へ』193-194ページより。コメントを追加して再度掲載。

逆に、こうした経済発展段階にある人々にとって何よりも切実な生存権の実現にこそ自由権の保障が必須であると主張され、その意味での人権の相互依存性も人権専門家の間で次第に受け入れられつつある。たとえばアマルティア・センは、報道の自由が飢饉や政策の失敗による飢餓を防止し、生存権を実効的に保障する上で重要な役割をはたしうると主張し、大きな影響を与えた。戦後のソ連・東欧圏と自由主義諸国の比較や、自由権を極度に抑圧した多くのアジア・アフリカ諸国が経済発展と富の公正な分配にも失敗しているという戦後の一般的な経験から見ても、社会権、なかんずく生存権の実現のためにも自由権の保障が必要という議論には一定の説得力が認められる。

 ただここで重要なことは、生存権という自由権社会権にまたがる権利の実効的保障のために、報道の自由表現の自由、政府批判の自由といった自由権の重要性が説かれている点にある。これは、社会権を軽視した従来の自由権中心主義とは大きく異なっている。このことは、同じ自由権の重要性を説くにあたっても、その意義付けにおいて自由権それ自体の絶対視から、自由権社会権を相対化し、その包括的実現を目指すという、人権の構造的・包括的保障という新たな流れの中に自由権を位置づける傾向を示すものにほかならない。自由権は、あくまで社会権との包括的な相互依存関係の中で、その重要性を認められているのである。

  先日のエントリで述べたような、アレントの思想(と僕が理解するもの)を下敷きに「国際社会への自由権への介入」を正当化する議論は、もちろん、上記の箇所で大沼が指摘するような「自由権至上主義」とは大きく異なる。後者は、いわば「自由権を実現させることを最優先させ、そのため経済制裁も辞さない」、という立場であるのに対し、前者は生存権の重要性は認めながらも、他国からの介入によってそれは実現することをは「断念」すべきである、という立場である。そして、あくまでも「当事者」の手によって生存権の実現が図られるためにも、国際社会が行うのは自由権への介入にとどめるべきだと主張するのだ。このような、「自由権至上主義」は、自由権の実現のためには、経済制裁などの手段によって、事実上他国への「生存権」への介入も辞さないのであるから、僕の考える「アレントの道」とは真っ向から対立する。

 一方、そのような「アレントの道」は、センのように生存権自由権は表裏一体だ、という立場とも微妙に異なる。そういった立場を一貫させるならば、もし現在悪政が行われていて、国民の生存権が脅かされているような国家が存在すれば、国際社会は直接その国の政治に介入すべきだ、という結論が導き出されるだろうからだ。そのような生存権社会権への直接の介入には慎重であるべき理由は、下のエントリで論じたとおりである。
 
・・こういう類の議論って、その後進展あるのかな。劉暁波ノーベル平和賞受賞をめぐってこれからも生じてくるであろう中国と国際社会との摩擦を「西洋文明と中華文明との対立」といった構図に落とし込んでしまわないためにも*1、こういういわば法哲学の臨床的応用といった議論が今ほど必要とされている時はないと思うのだが。