梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

村上春樹と中国と「モンゴル」

 以下はちょっと前に書きかけてしまいこんでいたものですが、稲葉さんがここで書かれていることとちょっと関係しそうなので、ここでお蔵出し。

 Acefaceさんからご示唆いただいた以下のテクスト、非常に示唆的だったので、いくつかの箇所を引用したい。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/mongolbungaku/muraka.html

ねじまき鳥クロニクル』の中のモンゴル人、すなはち、蒙古兵は、『羊をめぐる冒険』の中の印のある羊のような抽象的で、理解不能な存在である。勿論、彼らはその物語の主人公ではない。物語の主要なトポスがノモンハンであっても、その場所の主人公は彼らではないのだ。そして、蒙古兵のイメージは、第3部の狂暴なモンゴル人の渾名が「タルタル」(勿論、ラテン語の地獄を連想させる)であることが示すような人種主義的な時代のオクシデンタルなモンゴル人観に依拠している。それが、例えば、その無表情さが、ダウン症候群の発現と同義に用いられるような価値の方向性をもった、モンゴル人観のステレオタイプであることは明白である。

 結局、村上にとって、蒙古兵=イメージとしてのモンゴル人は、印のついた羊、そして、アメリカ人にとって、アメリカの小説の中にいるアジア人と同じように、絶対の他者である。このことは、村上文学がアメリカ文学の揺籃に育ったというより、モンゴル観においては、植民地文学、石塚喜久三の『纏足の頃』の延長線にあることを示しているのかも知れない(14)。


 この指摘はおおむねその通りだろう。しかし、ここで触れられていないがきわめて重要だと思われる点がある。それは村上春樹が同じアジア人でも中国人(漢人)を描く際においては、慎重にステレオタイプをさけ、限りなくフェアな姿勢を貫こうとしている、という点である。
 たとえば「羊」三部作に登場する「ジェイズ・バー」のマスター「ジェイ」が中国人であり、その名前がジェイ・チョウ周傑倫)と同じく「傑」の字から来ているということはよく知られている。このことからも分かるように、中国人に対してはその「顔」が印象に残るような描き方をしている村上が、モンゴル人に対してはとたんに隙の多い、オリエンタリズムに満ちた描写に無意識にせよ手を染めている、ということが問題なのだ。

 例えば、『ねじまき鳥クロニクル』に登場する人物の中で、間宮中尉の発話の中に広島の田舎を感じさせるものは一切ない。他の小説でも具体的な土地の名前があがっていても、その方言や地方の語彙が示されることはないのである。言葉が土地と切り離されているのだ。それは、言葉が土地、あるいは固有の文化というコンテキストを離れていることを示している。

 村上の文学の無国籍性は実はこのコンテキスト・フリーな言語感覚にあると言えるだろう。コンテキストのなさは、つまり、普遍性、近代性ということであり、西欧的ということでもある。それは、同時に自らのもつエスノセントリズムを見えにくしている(15)。 

 このくだりを読んで気がついたのだが、村上小説の中に出てくる中国人は、「ジェイ」をはじめとしてみな少しも訛りのない共通語を話す、あたかも「関西人」とか「広島人」と同じような存在として登場してくる。すなわち、中国人特有のとか体臭を感じさせない、それゆえに自然に感情移入可能な存在として扱われているといってよい*1。これは、「中国人」ないし「中国」が村上の小説世界の中における完全に「内部」の存在として扱われていることを示している。

 もちろん、それとは全く異質なものとして描かれるのが『ねじまき鳥クロニクル』の「蒙古兵」である。上記芝山の論考が指摘するように、『ねじまき鳥クロニクル』でのモンゴル人の描写は、一言で言えば臭くて、残酷で、怖くて、日本人とは全く異質のものとして描かれている。
 ある世界がある領域を「内包」していることを示すには、かならずその「外部」が示されなければならない。たとえば日本のナショスティックな文学者や思想家は、中国・朝鮮の文化と日本古来の文化の差異性をことさらに強調しなければならない。もちろん村上春樹はそのようなナショナリズムとは最も遠いところで小説を書いてきた。そのことゆえに、しばしば村上作品の「コンテキスト・フリー」性がしばしば強調されるのだが、ぼくはこの点にはかなり留保をつける必要があると思っている。

 村上文学の一見「戦後アメリカ的な」「普遍性、近代性」とみえるものは、実は「中国」の存在をかなり意識的に内部に組み込んだものであり、だからこそ現実の中華圏においても圧倒的に支持されたのではないだろうか?しかし、そのことは同時に、「中華世界」の「外部」としての「遊牧民族の領土」を代表するものとしての「モンゴル」が村上の小説世界の新たな「外部」として選ばれたのではないだろうか。おそらく、ここにこそ深刻な意味があるのだ。

 ここで注意すべきは、このような「モンゴル」を外部化する視線が、必ずしも中国人(漢人)の視線を「内面化」したそのものではない、ということだ。例えば加藤徹『貝と羊の中国人』が示すように、中国の文明に「羊」は日本人が考えるほどはるかに大きな影響力を及ぼしており、それゆえに知識人層の遊牧民族に対する視線も、蔑視と憧憬と贖罪が入り混じった、非常に複雑なものだと考えられるからだ。
 村上は恐らく、このような「羊」の世界と「中華世界」との対立を、かなり表層的に捕らえ、そこに境界を引いている。藤井省三村上春樹のなかの中国』によれば、欧米とはことなり中華圏では『羊をめぐる冒険』は、『ノルウェイの森』に比べて比較にならないほど話題にされることが少ないという。藤井省三は、『ノルウェイの森』の性描写の面での先鋭さが、中華件でより人気を集めた原因だとしているが、むしろ村上の「羊」的なものに対する表層的な捉え方が、香港・台湾を含めた中華圏では受け入れられなかった原因ではないだろうか。ここで中華世界で空前の大ベストセラーになった小説『神なるオオカミ』で示された、草原世界と「モンゴル人」に対する豊穣な描写と、村上作品におけるそれの平板なイメージとを比較してみればよい。

 村上の中国と中国人に対するフェアな視線、あるいは日本の侵略戦争に対する内省的な視点は、たぶん戦後日本の「良心」を正統的に受け継ぐものであった。だがそれは同時に、その「外部」に位置する周辺民族への「アンフェア」な視点によって支えられるものであった、ということは重く受け止められなければならないだろう。それはとりもなおさず、日本における特に「良心的知識人」のチベット問題に代表される中国の少数民族問題にたいする最近までの無関心さ、また現在においても存在するそれが語られるときの固有の難しさと対応している。
 その意味で、たぶん村上春樹も含むわれわれ(あえてこの語をつかうが)は、「中国」に対する「フェアな視点」をまだ獲得できていない。いかに困難であろうとも、それを模索していかなければならない時期に来ているのではないだろうか。

貝と羊の中国人 (新潮新書)

貝と羊の中国人 (新潮新書)

村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

*1:アフターダーク』では暴行を受ける中国人娼婦が出てくるが、言葉を一言も話さないのでやはりニュートラルな存在として扱われているといってよい。