昨年11月のゲンロンカフェでの東浩紀氏との対談記事、「悪と公共性をアジアから考える」の第2回目が公開されました。1990年代に盛んにおこなわれた、日本の戦争責任に関する論争の一つとして、「東史郎裁判」をめぐる溝口雄三氏と古厩忠夫氏(いずれも故人)との論争にも触れています。これは、加藤典洋氏と高橋哲也氏との論争、あるいは吉見義明氏と上野千鶴子氏との論争などに比べて、一般的な知名度は低いのですが、明らかにそれらの延長線上に位置づけられるもので、ある年代以上の中国研究者には大きな影響を与えたものです。そして、習近平政権が強権を強め、中国政府の姿勢を擁護する発言が無条件に公共性に反するもの、すなわち倫理的に「悪」だと見なされることが多くなった現在、改めてこの論争の意味を振り返ることには大きな意味があるのではないかと個人的に考えています。そして後半では、この難しい問題を解きほぐす補助線として、ケン・リュウや村上春樹といった作家の「文学的想像力」が参照されています。ぜひ、ご一読いただければと思います。