梶ピエールのブログ

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アダム・スミスと「公共性」について

 『国富論』や『道徳感情論』を翻訳ですらまともに読んだことない無教養な人間にとってはとてもためになる本だった。内容については、

ここで描かれたスミスは、個人の利益追求絶対者でもなく、急進的規制緩和論者でもなく、市場原理主義者でもなく、経済成長論者でもなく、富国論者でもない。人類の存続と繁栄を希求し,時々の政策課題に真摯に対応し、現状にたいして熱狂も絶望もしない等身大の人間に幸福の境地を見たスミスといってもいい。

 という赤間道夫氏の評が簡にして要を得ていよう。

 特に印象だったのは、「富」を目指す「弱い人(小人・俗物)」と「徳」を目指す「賢人(君子)」との二元論によって近代的「公共性」の成立を説いたものとして『道徳感情論』の内容を明快に解説したくだりだ。ここからも分かるように、スミスの議論では、必ずしも徳の高くない「弱い人」をして「公共性」に向かわしめる装置として「市場」に高い地位が与えられる。思いつきだが、ジェイン・ジェイコブズが『市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)』で切り開いた発想の起源は実はこの辺に求められるのかもしれない。また、アメリカ独立問題をめぐるスミスの所説は、彼の「公共性」論の実践編として興味深かった。現在の米中を初めとした大国の政治家に求められるのも、世界に冠たる高邁な理想などではなくて、まさに「人類の存続と繁栄を希求し,時々の政策課題に真摯に対応し、現状にたいして熱狂も絶望もしない等身大の人間に幸福の境地を見」る平衡感覚*1ではないだろうか。

 さて、このようなスミスの「公共性」論は現代社会においてどのような意味を持つだろうか。最近の東浩紀氏の著作とか稲葉振一郎氏の『「公共性」論』では、「環境管理型権力」によって飼いならされた結果「主体」として社会に働きかける契機を失った存在=「動物化した人」が中心的な考察対象となり、そのような社会でいかに公共性は可能か、という議論がなされているが、もちろんスミスにはこういう問題意識はない。

 この点について、例えば現代のラディカルな市場経済批判者は、おそらく自らを「賢人」に位置づけたうえで、現代の「動物化した(ネオリベ)社会」では、つねに「動物化した人」が「弱い人」によって徹底的に食い物にされるので、スミスの説くような「市場を通じた公共性」はもはや成立し得ない、という立場をとっているように思われる。この立場の難点は、結局(自分達のような)「賢人」が増えなければ世の中はどうしようもない、という結論になるので、しばしば「弱い人」「俗物」の存在に対して非寛容になり、抑圧的な態度をとってしまいがちだ、という点にある。稲葉氏のラディカル・デモクラシーあるいは左翼批判はおおむねこの点に向けられている、といっていいと思う。

 一方『「公共性」論』の議論の特徴を乱暴にまとめるなら、まずそれぞれの社会における「統治」「管理」の形態があり、そのテクノロジーの発展状況に応じて許容される「公共性」あるいは「人間性」の範疇が決まってくる、という発想を(あえて)とるところにある。その上で、上記のような「公共性」をめぐるアポリアについては、「人間性」それ自体が持つ普遍的な価値、道徳性というよりは、むしろそれを実現可能にするテクノロジーの発達に、解決の期待をかけているように思える。というのも、テクノロジーその他の制約さえないならば、統治者にとっても被治者を完全な「動物」扱いするよりは、「人間」として扱ったほうが得になるはずだからだ。
 ただこれは、まず始めに「人間」が疑いの余地なく存在し、その相互行為により「公共性」の範疇が生じ、それに適合的な「統治」「管理」のあり方が選択される、とする西洋近代的な発想からすると180度の転換のようにみえる。しかも、稲葉氏によればこれは「動物化した社会」になって初めて到来したような現象ではなく、昔からヒトの営む社会とは多かれ少なかれそんなものだったのだ、ということになる*2。言われてみれば確かにそうなのだが、ある意味でミもフタもない議論を展開しているともいえるので、そこで躓く人も多いのではないか*3

 以上のような議論を本格的に評価することは、やはり「難しい」と逃げざるを得ないのだが、堂目氏の著作ともかかわる点を一つだけ。『「公共性」論』でしばしば出てくる、「環境管理型権力」をふるう「統治者」の概念は、スミスの「賢人」のイメージに近いように思われ、その意味では伝統的な「公共性」の議論を確かに引き継いるのではないだろうか。ただそこでの議論に、「弱い人」の存在を明示的に取り入れる必要はないのだろうか。『「公共性」論』では、「統治」と「被統治」の二面性については非常に力を入れて論じられている反面、スミスが注目したような、人間の「賢さ」「弱さ」の二面性については余りすくいあげられていないような気がした。二つの本を読み比べながら、そこが一番気になった点であった。

「公共性」論

「公共性」論

*1:中国の指導者で言えば、胡耀邦には明らかにこのような平衡感覚が備わっていた、と思われる。

*2:例えば八章「幸福なホモ・サケル」における議論参照

*3:それが本書に対する読者の「わからない」「むつかしい」という反応に現れているのかもしれない。